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投稿日:2019年01月02日

投稿日:2019年01月02日

自分の人生は大いなる何かに導かれていることを知る――田坂広志氏が語るリーダーの覚悟

田坂 広志
多摩大学大学院教授 田坂塾・塾長 世界賢人会議Club of Budapest日本代表

前回に続き、あすか会議2018のセッション「すべては導かれている - 逆境を越え、人生を拓く5つの覚悟」の内容をお届けします。(全3回)動画版はこちら>>

自分の人生は、大いなる何かに導かれている

いよいよ本題に入りましょう。いかなる逆境も越え、人生を拓いていく。そのために最も大切なことは、「今を生き切る」ことです。そして、その生き方をするためには、何よりも、「深い志や使命感」を抱くことです。

では、その志や使命感を抱くとき、大切なものは何か。それは、「すべては導かれている」という覚悟を定めることです。

私自身、先ほどお話しした禅寺から戻ってくるとき、真っ青な空を見上げながらこう思いました。「ああ、自分には、大切な使命がある」。心底、そう思ったのです。もうその時は、自分の病気がどうなるかなど、まったく考えることはなかった。不思議ですね。あれほど、病気の不安と恐怖に押しつぶされそうになっていたのに。その時は、夏の青空を見上げ、「ああ、自分には成し遂げるべき使命がある。その使命に気づかせて頂くために、この寺に招かれたのだ。大いなる何かに導かれ、この寺に招かれたのだ」と思ったのです。そして、その時から、「すべては導かれている」という覚悟を定め、与えられた一日を精一杯に生きるという修行、「今を生き切る」という修行に入らせて頂いたのです。

では、どうすれば、「すべては導かれている」という根本覚悟を定めることができるのか。その根本覚悟にいたる道を、「五つの覚悟」を一つ一つ定めていく技法として、皆さんにお伝えしたいと思います。

まず、第一は、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という覚悟を定めることです。皆さんが、もし、その覚悟を定められるならば、それだけで、何かが変わり始めます。

しかし、こう申し上げると、すぐに一つの疑問を持たれる方がいるでしょう。「田坂さん、おっしゃる意味は分かるけれども、その『大いなる何か』など、本当に存在するのでしょうか」と。

実は、そうした「大いなる何か」が存在するか否かは、誰も証明できないのです。人類何千年の歴史の中で、誰もそのことを証明した人はいない。その「大いなる何か」を、人は、ときに神と呼び、ときに仏と呼び、ときに天と呼ぶのかもしれない。しかし、それが存在するかどうかは、誰も証明できないのです。

ただ、良い機会だから申し上げます。例えば、「信念を持て」ということは、よく言われます。「自信を持て」ということも、よく言われます。この「信」という言葉の本当の意味を、皆さんはお分かりでしょうか。

この「信」という言葉の意味。誰かが証明してくれるから信ずるというのは「信」とは呼ばないのです。誰も証明することはできないが、自分は、無条件にそれを信ずる。このことを「信」と呼ぶのです。誰かが証明できるものは「信」とは呼ばない。ニュートンの法則を、「信」とは呼びません。それは単なる科学的な「常識」であり、「知識」です。

すなわち、「信」とは、無条件に信ずること。では、どうしてそれを信ずるのか。

それを信ずることで、良き人生を生きることができると思うからです。「信」という言葉は、本来、そのように使うべき言葉だと、私は思っています。誰かが証明しているからではなく、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」と信じて生きることによって、素晴らしい人生を拓くことができると思っているからです。

しかし実は、こうした「信」は、優れた先人の多くが、その人生において抱いて歩んだものでもあります。それは、政治家、経営者、文化人、芸術家、スポーツ選手、いかなる分野であっても、「ああ、見事な人生を歩まれたな」と思える方は、例外なくと言って良いほど、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という「信」をお持ちです。だから、その方々は、逆境においても挫けることなく歩み、自身の中に眠る素晴らしい可能性を開花させ、「大いなる何か」の声に耳を傾けて歩んでこられたのだと思います。

私は、これまで、多くの経営者の方々とのご縁を得てきましたが、優れた経営者は、どなたも、その「信」をお持ちでした。例えば、私が若いころ薫陶を受けた素晴らしい経営者の中に、「Banker of the Year」という世界的な賞を受賞された、大手都市銀行の元頭取の方がいらっしゃいます。この方は戦時中、水兵として乗艦していた巡洋艦が撃沈され、海に投げ出された後、九死に一生を得て生還されたという経験の持ち主でした。この方も、ある時、ご自身の人生を振り返り、呟かれていました。「人は生かされて生きてるからね」と。

昔から、名経営者と呼ばれる方は、どなたも、こうした深い宗教的な情操をお持ちでした。それは、「自分は、大いなる何かに生かされて生きている」「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という「信」と呼ぶべきものでした。

そして、この「大いなる何かに導かれている」という覚悟は、経営者やリーダーとして歩むために、極めて大切なものです。なぜなら、人を導くリーダーの立場にある人間は、自分自身を導く何かを信じることがなければ、心の中に、無意識の傲慢さが生まれてしまうからです。

皆さんは、どなたも、リーダーの世界を歩んでこられた方々であり、また、これから歩まれる方々だと思います。そうであるならば、いずれ、皆さんは、誰もご自身を導いてくれない時代を迎えます。だからこそ、そのとき、心の中に、「自分は、大いなる何かに導かれて生きている。その導きの声に、虚心に耳を傾けて歩もう」という、人間として最も謙虚な心を持って頂きたいのです。

分野を問わず、優れた仕事を成し遂げた方々は、どなたも、そういう「謙虚さ」と「信」を持って歩まれた方々です。例えば、版画家の棟方志功。彼が残したあの言葉も、素晴らしい言葉です。「我が業は、我が為すにあらず」。すなわち、「自分の残したこの仕事は、自分が成し遂げた仕事ではない。大いなる何かが成し遂げた仕事だ」と、堂々と言われる。素晴らしい生き方ですね。

皆さんも、これから何十年かの歳月を歩み、見事な仕事を成し遂げていく方々です。ただ、願わくば、人生の最後に、そうした言葉を語って頂きたい。いつか、世の中の人々から、「あなたは素晴らしい仕事を成し遂げましたね」と聞かれたならば、「大いなる何かに導かれ、この仕事を残すことができました」と答えて頂きたい。「幸い、世の中の多くの人々に光を届ける仕事を成し遂げさせて頂きました。しかしそれは、私が成し遂げた仕事ではありません。私という人間を通じて、大いなる何かが成し遂げた仕事です」。いつの日か、もし皆さんが、そう語られるならば、それは、一人の人間が人生を振り返ったとき語り得る、最高の言葉ではないでしょうか。

そして、こうした「我々の人生は、大いなる何かに導かれている」という「信」を抱いていたのは、優れた仕事を成し遂げた方々ばかりではありません。何千年もの人類の歴史を振り返るならば、多くの人々が、神という言葉、仏という言葉、天という言葉を使って、「大いなる何か」の存在を信じ続けていました。特に我々日本人は、日常の中で当たり前のように、「天命」という言葉や、「天の配剤」、「天の声」、「天の導き」といった言葉を使います。

すなわち、我々日本人は、誰もが、「我々の人生は、大いなる何かに導かれている」という感覚を抱いており、ある意味で、世界で最も深い宗教的情操を日常的な言葉で語っている国民なのです。我々日本人は、当たり前のように、「有り難いご縁を頂きました」という言葉を使います。また、「一期一会」という言葉も使います。このように、日本人は誰もが、素晴らしい宗教的情操を持っています。だからこそ、改めて、一つの覚悟を定めて頂きたいのです。「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という覚悟を定めて頂きたいのです。

いや、皆さんは、ご自身の人生を振り返るならば、すでに、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という感覚をお持ちではないですか。 「あの時、あの人と巡り会ったから、道が拓けた」「あの時、あの出来事があったから、自分の進むべき道が分かった」。そういう体験を持たれている方は決して少なくないでしょう。そうであるなら、もうすでに皆さんは、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という感覚を抱かれているのではないでしょうか。

されば、その「感覚」を、「覚悟」にまで深めることです。

そのことを申し上げると、「第一の覚悟」は、もう十分に理解されたかと思います。

人生で起こること、すべて、深い意味がある

そして、その「第一の覚悟」を定めると、自然に「第二の覚悟」が定まります。それは、「人生で起こること、すべて、深い意味がある」という覚悟です。

「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という覚悟を本当に定めたなら、自然に、この「第二の覚悟」の意味が分かるはずです。なぜなら、我々の人生で与えられるのは、有り難い「順境」ばかりではないからです。ときに、辛い「逆境」も与えられます。そうであるならば、その逆境も含め、すべてが導かれているということに、気がつくはずです。

すなわち、人生で起こる様々な出来事のうち、「幸運に見える出来事」だけが導かれたものではないからです。「不運に見える出来事」もまた、やはり、導かれているのだということに気がつくでしょう。そして、そのことに気づくと、人生における「不運に見える出来事」や「不幸に見える出来事」にも、深い意味があることに気がつくはずです。

この「第二の覚悟」は、大切な覚悟です。この「人生で起こること、すべて、深い意味がある」という覚悟を定めないと、我々の人生観は、浅薄なものになってしまいます。「どうすれば、幸運な出来事や幸福な出来事だけで、人生を生きていけるか」と考え、「不運な出来事」や「不幸な出来事」が起きると、すぐに落胆してしまう。それでは、偶然のように見える出来事に振り回される生き方になってしまいます。

もとより、「幸運な出来事」が起きれば、当然、有り難いと思い、感謝の心を抱くべきでしょう。では、「不運に見える出来事」が起きたとき、どう処すべきか。人間であるかぎり、その出来事が起こった当初は、落ち込むことがあってもいいでしょう。しかし、いずれ、まもなく、心が立ち直るようであってほしい。

そのためには、その「不運に見える出来事」を、次のように受け止めることです。

「たしかに、こうした出来事を望んでいたわけではない。また、周りの人々は、この出来事を、不運な出来事だと言う。しかし、本当はそうではない。この出来事は、深い意味があって、今の自分に与えられた出来事だ。そうであるならば、この出来事から、その意味を学ぼう。大切なことを学ぼう。今、この出来事は自分に何を教えようとしているのか。自分に何を学べと言っているのか。自分に何を掴めと言っているのか。自分に何を伝えようとしているのか。そのことを真摯に学ぼう」

そう覚悟を定め、受け止めて頂きたいのです。

そして、この受け止めを、私は、「解釈力」と呼んでいます。これは文字通り、「人生で起こった出来事の意味を解釈する力」のことですが、この力は、人生を拓くために最も大切な力の一つです。

特に、経営者やリーダーたるもの、会社やチーム全体が苦境に陥ったとき、誰もが落胆するとき、社員やメンバーの誰よりも早く心が立ち直り、この「解釈力」を発揮できるようでなければならない。そして、社員やメンバーに対して、こう語れるようでなければならない。

「たしかに、この出来事は、残念な出来事だ。しかし、今、この出来事が与えられたのには、大切な意味がある。そうであるならば、今、その意味が何であるかを考えよう。この出来事から大切なことを学ぼう。この敗北から、この失敗から、この挫折から、大切なことを学び、成長していこう。この出来事は、そのために天が我々に与えてくれたのだから」

もし、皆さんが、逆境にあって、苦境にあって、そう言い切ることができる経営者やリーダーであるならば、皆さんはすでに素晴らしい経営者であり、リーダーであると思います。

例えば、私が若い頃、深い共感を覚えた一つのエピソードがあります。それは、大相撲の世界の話ですが、昔、ある大関が絶好調のとき、膝の故障で長期休場を余儀なくされたのです。それは、誰が見ても「不運な出来事」でした。しかし、この大関、その後、復帰してきて、再び素晴らしい活躍をしました。

この大関が引退した後、親方になってから受けた、あるインタビューで、「長期休場を余儀なくされた、あの挫折は、大変辛い体験ではなかったですか」と聞かれ、なんと答えたか。この親方、こう言われたのです。

「あれは、天が与えた故障だったのです。あの頃の私は、絶好調の自分に慢心していました。だから私は、あのとき、あの挫折を体験しなければならなかったのです。そして、あの挫折によって、私は大切なことを学ばせて頂きました」

見事な「解釈力」です。もし、この親方が、浅薄な人生観しか持たなかったならば、「あのとき、あの故障がなければ、さらに何勝も挙げることが出来て、優勝もできたのですが・・・」と答えるでしょう。しかし、もし、この大関が、そういう了見であれば、復帰後に、あれほどの活躍をすることはできなかったでしょう。

我々の人生における、苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失、病気や事故は、いずれ、「大いなる何か」が、我々を育てるために与えるものです。その意味で、この大関のエピソードは、深い感銘を受けます。

もう一つ、さらに深い感銘を受けるエピソードがあります。あるとき、ある男性が、アメリカに出張中に酷い交通事故に遭ったのです。車を運転中、一瞬の不注意から大事故を起こしてしまい、病院に担ぎ込まれたのです。そして、意識不明の重体から目が覚めると、左足切断という現実を目の当たりにしました。

この男性、一瞬の不注意で人生を棒に振ってしまったと思い、悲嘆のどん底にいました。しかし、日本からその病院に駆けつけた奥さん、病室に入るなり旦那さんを抱き締め、何と言ったか。

「あなた、良かったわね! 命は助かった! 右足は残ったじゃない!」

この奥さん、見事です。この人生の「解釈力」。この極限の場面で、起こった出来事を、どう解釈するか。「ああ、一瞬の不注意で左足を失い、人生を棒に振ってしまった!」と思うのか、「命は助かった! 右足は残った! 有り難い!」と思うのか。この「解釈力」の差は、人生を、大きく分けます。

皆さん、人間の「真の強さ」とは、一体、何でしょうか。それは、究極、この「解釈力」ではないでしょうか。

何が起こったか。それが人生を分けるのではない。

起こったことを、どう解釈するか。それが人生を分ける。

それが、人生の真実ではないでしょうか。

皆さんも、ご自身の人生を振り返るならば、これまでに色々な逆境を体験されてきたと思います。では、そのとき、その逆境を、どのような「解釈力」で乗り越えてきたか、振り返ってみて頂きたい。そして、これからも、皆さんの志が高ければ高いほど、様々な苦労や困難、失敗や敗北、そして、挫折に直面されるでしょう。そのとき、この「解釈力」という言葉を思い出して頂きたい。そして、「人生で起こること、すべて、深い意味がある」ということを、思い起こして頂きたい。それが、「第二の覚悟」です。

人生における問題、すべて、自分に原因がある

しかし、この「解釈力」を正しく発揮するためには、もう一つ、心に定めるべき大切な覚悟があります。それは、「人生における問題、すべて、自分に原因がある」という覚悟、「第三の覚悟」です。この覚悟を定めることができるかどうかが、大きな分かれ道です。

では、なぜ、この覚悟が大切か。実は、「解釈力」と言っても、目の前に与えられた逆境の「意味」は、いかようにも解釈できるのです。

例えば、仕事において、あるトラブルが生じたとします。そのとき、「これは、当社の組織に問題があるということを教えてくれている」と解釈する。それも解釈です。また、「この出来事は、あの上司に問題があるということを教えてくれている」と解釈する。これも解釈です。

しかし、こうした「自分以外に責任を問う」「自分以外に責任を押し付ける」という「他責」の解釈をしている限り、人間として成長できないのです。そして、道も拓けない。運気を引き寄せることもないのです。

逆に、そうした「他責」の姿勢ではなく、「起こること、すべて自分に原因がある」という「自責」の解釈をすると、人間的に成長できるだけでなく、なぜか、運気も引き寄せるのです。

例えば、元サッカー日本代表監督の岡田武史さん。この方が横浜F・マリノスの監督だったとき、審判の明らかな誤審で試合を失ったことがあります。テレビのリプレイを見ても、明らかに審判の誤りだった。しかし、判定は覆らない。その試合の後、インタビュアーに「審判の誤審で負けましたね」と聞かれた。インタビュアーは、岡田監督から愚痴の一つも聞こうとした場面でした。

ところが、そこで岡田監督は、感情的になることもなく、堂々と、こう言いました。

「ええ、審判も人間ですから誤審をすることはあるでしょう。でも、我々は、それも含めて勝たなければならないんです」。

岡田監督は、堂々とそう言った。日本には、昔から、「運も実力のうち」という言葉がありますが、「それも含めて勝たなければならない」と、敗北を自分の責任として受け止める姿勢、それが、岡田武史というリーダーに、いつも強運をもたらしているのでしょう。

そもそも、我々が問題に直面し、「自分の責任ではない。誰かの責任だ」と思うときは、多くの場合、我々の心の中で「小さなエゴ」が動いています。そして、その「小さなエゴ」が動いているときは、必ず、「解釈」を誤ります。例えば、感情的になっているとき、誰かを非難する思いが強いとき、自己弁護の思いが強いとき、こういうときは、必ず「解釈」が歪みます。「解釈」が濁ります。そして、そのとき、「大いなる何か」が、我々に手を差し伸べることはないのです。

そうであるならば、皆さん、ご自身の心の中にある「小さなエゴ」の動きは見えているでしょうか。「小さなエゴ」は、誰の心の中にもあります。私の心の中にもあります。そして、この「小さなエゴ」は、消そうとしても、消えるものではありません。捨てようとしても、捨てられるものではありません。それは、生涯つき合っていくべきものです。

よく、「我欲を捨てる」という言葉や、「私心を去る」といった言葉を簡単に言われる方がいますが、実は、人間の心は、それほど簡単ではないのです。心の中の「小さなエゴ」は、「捨てた」と思っても、それは、単なる錯覚か、思い込みであり、実は、心の奥深くに隠れているだけなのです。それゆえ、何かの拍子に、容易に、また表に現れてくるのです。

だから、自分の心の中の「小さなエゴ」とは、生涯つき合う覚悟を定めた方が良い。むしろ、捨てたつもりになっていることが、危ない。「自分は我欲を捨てた」と思っても、ただ、そう思い込んでいるだけであり、心の中で抑圧した「小さなエゴ」は、別のところで必ず鎌首をもたげるのです。それが人間の心の姿です。

だからこそ、宗教的に深い境涯にまで行かれた人物、例えば、親鸞のような人物は、その境涯に至ってなお、あの言葉を残すわけです。「心は蛇蝎のごとくなり」。自分の心は、ヘビやサソリのごとくだ、と。たしかに、誰であろうとも、自分の心を深く見つめると、そこには、「小さなエゴ」の蠢きがある。衝動がある。思わず怒りに駆られる瞬間も、人を妬む瞬間も、恨む瞬間もある。それが、人間の自然な姿ではないでしょうか。

そして、こうした指摘は、決して親鸞だけではない。昔から、真の宗教家は、この「小さなエゴ」の問題を鋭く指摘しています。「小さなエゴ」を捨てたつもりになって幻想に入るべきではない。それ自身が、「小さなエゴ」の擬態であると。

では、どのようにして、その「小さなエゴ」に処すればよいのか。それを捨てたつもりになって抑圧しても、一度、心の表面から隠れるだけで、また、すぐに鎌首をもたげてくる。その「小さなエゴ」に、どう処すればよいのか。

実は、そのための方法は、ただ一つです。

「心の中のエゴを、ただ静かに見つめること。否定も肯定もせず、ただ静かに見つめること」。

それが唯一の方法です。

例えば、自分の中に怒りが湧き上がってきたとき、「ああ、自分は、今、目の前のこの人物に強い怒りを感じている・・・」と、静かに自分の心を見つめることです。例えば、自分の中で嫉妬の心が動くとき、「ああ、自分はやはり生身の人間だ。今、嫉妬の心が動いている」と見つめることです。

こうした修行を続けていると、いつか、「自分を静かに見つめる、もう一人の自分」が、心の中に生まれてきます。そして、「成熟」という言葉の本当の意味は、心の中に、この「もう一人の自分」が生まれてくることなのです。

それゆえ、精神の成熟した人物は、例えば、数分前のことでも、「先ほどは申し訳ない。私も少し感情的になりました・・・」といったことを謙虚に言えます。自分の心の中の「小さなエゴ」の動きを、一度、冷静になって見つめ、そうしたことを言えるというのは、「成熟した精神」の証でしょう。

一方、人間として未熟な人物には、周りから、なかなか厳しい言葉が語られます。「あの人は、自分が見えていない」。すなわち、自分の心の中の「小さなエゴ」の蠢きや衝動が、今、自分にどのような感情をもたらしているかが、見えていないのです。

しかし、自分の心の中に、「小さなエゴ」の蠢きや衝動を静かに見つめる「もう一人の自分」が生まれてくると、自然に、先ほど述べた「人生における問題、すべて、自分に原因がある」という覚悟が掴めるようになってきます。そして、その覚悟を掴むと、人生というのは、ずいぶん目の前が開けていきます。

ただ、こうした話は、「頭」で理解するのは簡単です。「知識」として理解するのは簡単です。優秀な人であれば、話を聴き終わった後に、「3番目の覚悟は」と聞かれて、「○○です」と答えることは簡単です。しかし、この覚悟を、体験を通じた「智恵」として掴むことは、決して容易ではない。その覚悟を、本当に腹に刻むこと、心に刻むことは、容易ではない。

それを掴むには、「行ずる」しかない。日々の仕事や生活の中で、実践するしかない。だから、「修行」をすることが大切なのです。そして、修行というものは、3日や3ヶ月で終わるものではありません。どれほど短くても、3年、修行を続けることです。行じ続けることです。そのとき、ようやく見えてくる世界があるのです。

しかし、今の世の中には、「いかに手っ取り早く」「いかに苦労せず」「いかに楽をして」という発想がはびこっています。書店に行けば、そのような本ばかりが溢れている。だから、我々は「堪え性」がなくなる。本当に大切なことは、簡単には身につかない。しかし、3年、腹を据えて修行をすれば、素晴らしい何かが掴めるにも関わらず、それができない。油断をすれば、我々は、そうした「堪え性」のない人間になってしまうのです。

だから、皆さんには、一つの覚悟を定めて頂きたい。「3年でも、5年でも、修行をしよう。いや、修行とは本来、生涯をかけ、命尽きるまで続けていくべきものだ」という、その覚悟を定めて頂きたいのです。もし、この場に集まられた1400名の方々が、その覚悟を定められたならば、我々の想像を超えた素晴らしいことが起こります。

今日の講演で皆さんにお伝えしたいことは、「逆境を越え、人生を拓く5つの覚悟」についてです。では、私はどこで、この「5つの覚悟」を学んだのか。もとより、あの禅寺で、何か一つひとつ教えて頂いたわけではありません。あの禅寺で禅師より教えられた、「今を生き切れ!」という一言だけを携えて東京に戻り、仕事の世界に戻ってみると、色々なものがすべて深い学びだったのです。

例えば、ある上司がいました。その方はクリスチャンであり、非常に深い宗教的な情操を持っている物静かな上司でしたが、その上司が、あるとき、私を食事に誘ってくれたのです。静かなレストランで食事をして、最後にコーヒーを飲んでいるとき、その上司が、自身に語りかけるように、呟いたのです。

「仕事をしていると、毎日、色々なトラブルがあるのだね。そうしたトラブルが起こるたびに、この会社の組織に問題がある、あの上司に問題がある、あの部下に問題があると思うんだね・・・。しかし、家に帰って一人静かに考えていると、いつも同じ結論に辿り着く。『ああ、自分に原因があった』。いつも、その結論に辿り着くのだね」

私は、その話を聞いたとき、最初、「なんと謙虚な人なのだろう」と思ったのですが、その会食の帰り道、ふと気がつきました。「ああ、あの上司は、自分のことを語る姿を通じて、私に、大切なことを教えてくれていたんだ」と気がついたのです。

当時の私は、あるプロジェクトのリーダーとして、毎日起こる様々なトラブルを前に、心の中で苛立ちを抑えきれなかったのでしょう。そのため、口に出さずとも、どこか周りを非難するような雰囲気が表れていたのでしょう。その私の姿を見て、この上司は、静かに自身を語る言葉を通じて、大切なことを教えてくれたのです。そのお陰で、私もその日から、「すべてのことは、究極、自分に原因がある」と思い定める修行を始めました。

しかし、これは決して「自分が悪い」という意味で申し上げているのではありません。これは臨床心理学の世界で語られる「引き受け」という心の姿勢の大切さを申し上げているのです。

以前、臨床心理学の河合隼雄先生と対談をさせて頂いたことがありますが、カウンセリングでは、クライアントの方が立ち直って成長していくとき、必ず、この「引き受け」という心の姿勢に転換されるということを述べられていました。

すなわち、クライアントの方が癒されていくときには、必ず、心の中で、この「引き受け」が起こっているのです。例えば、「長年、親父のことを鬼だと思っていたのですが、実は、私は親父にずいぶん助けてもらっていたのですね・・・」などと語り、自分で問題の原因を引き受けるようになるのです。逆に、人生で与えられた問題について、誰かを非難したり、攻撃している限り、実はその方が救われないのです。

そして、これは、臨床心理学やカウンセリングだけの問題ではありません。我々の人生には色々なことがありますが、最初は、誰もが、自分以外に原因を見つけ、批判したり、非難をする傾向があります。しかし、それでは問題が解決せず、壁に突き当たり、悩み、最後に、「いや、これは自分が引き受けるべき問題だ。自分が成長することによって、この問題を乗り越えていこう」と思った瞬間、不思議なほど、目の前の風景が変わり、なぜか物事が好転し始めるのです。

なぜ、こうした不思議なことが起こるのか、科学的には証明できません。しかし、私自身、問題に直面したとき、こうした「引き受け」の心の姿勢に転換した瞬間に、色々な物事が不思議なほど好転し始めることを、これまで何度も体験してきました。

そして、こうした体験は、私だけではありません。私は、しばしば中小企業の経営者の方々に講演をさせて頂くことがありますが、こうした「引き受け」と「問題好転」の話をすると、経営者の方々は、皆さん頷かれます。自分の心が「引き受け」の姿勢に変わった瞬間に、なぜか、もうどうしようもないと思っていた目の前の問題が好転し始めたり、出口の無い状況が変わり始めたりする。そういう人生の不思議を、皆さん、体験されているのですね。

実際、今、この会場にも頷かれている方が何人もいらっしゃいます。皆さんの中にも、こうしたことを体験された方いらっしゃるのでしょう。そして、この「引き受け」ができるという心の強さが、実は、「魂の強さ」と呼ぶべきものなのです。

例えば、あるプロジェクトのリーダーである田中さん。そのプロジェクトメンバーの一人である鈴木さんが犯したミスによって大きなトラブルに直面した。上司は、鈴木さんに非があると分かったうえで、「田中さん、今回のトラブルの原因は、鈴木さんかな?」と聞く。すると、「いや、鈴木さんに対する私の指導が甘かったのです。私の責任です。申し訳ありません」と言う。そういう「引き受け」をするタイプのリーダーがいます。

もちろん、別のタイプのリーダーもいます。「そうなんです。前から鈴木さんは、仕事のやり方が甘いんです。だから、こうしたトラブルが起こったのです」と言うタイプです。こう言いたくなるリーダーの気持ちは分かるのですが、やはり、一人のプロフェッショナルとして、そして、一人の人間として成長していくのは、明らかに前者のタイプです。なぜなら、前者のタイプのリーダーは、「魂が強い」からです。こういうリーダーは、見事なほど、成長していきます。

田坂 広志

多摩大学大学院教授 田坂塾・塾長 世界賢人会議Club of Budapest日本代表

東京大学卒業、同大学院修了。工学博士(原子力工学)。1987年、米国シンクタンク・バテル記念研究所客員研究員。1990年、日本総合研究所の設立に参画。現在、同研究所フェロー。2000年、多摩大学大学院教授に就任。社会起業家論を開講。同年、21世紀の知のパラダイム転換をめざすグローバル・シンクタンク、ソフィアバンクを設立。代表に就任。2008年、世界経済フォーラムのグローバル・アジェンダ・カウンシルのメンバーに就任。2010年、4人のノーベル平和賞受賞者が名誉会員を務める世界賢人会議、ブダペストクラブの日本代表に就任。2011年、東日本大震災に伴い、内閣官房参与に就任。2013年、全国から4800名の経営者が集う場、「田坂塾」を開塾。著書は80冊余。