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投稿日:2019年01月01日
投稿日:2019年01月01日
人生を拓く「真の逆境力」を身につける――田坂広志氏が語るリーダーの覚悟
- 田坂 広志
- 多摩大学大学院教授 田坂塾・塾長 世界賢人会議Club of Budapest日本代表
本記事は、あすか会議2018のセッション「すべては導かれている - 逆境を越え、人生を拓く5つの覚悟」の内容を書き起こしたものです。(全3回)動画版はこちら>>
今日は、非常に感慨深い思いでやって参りました。あれは3年前でしょうか、仙台でのあすか会議にもお招き頂いたのですが、私はいつもこうした場で、一つだけ、覚悟を定めていることがあります。「一期一会」。私はいつも、「この講演にお招き頂けるのは今日この日が最後だ」と、思い定めて講演をさせて頂いています。
従って、未熟な一人の人間ながら、あの3年前のあすか会議でも、「これ以上の講演はもうできない」という思いで務めさせて頂きました。それが、よもや、またお招き頂くことになるとは思っていなかったのですが、これも天の配剤でしょう。導きと言ってもいい。また、こうやって、あすか会議にお招き頂いたこと、改めて深くお礼を申し上げたいと思います。
いま申し上げたように、どの講演も、「一期一会」と思い定めて話をさせて頂いています。ですから、今日もまた、その思いで、1400名の皆さんのかけがえのない人生の時間を、1時間、お預かりさせて頂きたいと思います。
まず、最初に申し上げたいことがあります。皆さんは、このグロービスという素晴らしいビジネススクールで学ばれてきた方々ですが、では、皆さんは何のため、このビジネススクールに入られたのでしょうか。私もまた、多摩大学大学院のビジネススクールで教鞭を執っている人間ですが、私の講義を聴かれる受講生・学生の方々には、いつも最初に、そのことを伺います。「皆さんは、何のために、この学び舎に来られたのですか」と。
実は、それはMBAを取るためではないですね。資格を取るためではないですね。皆さん、思いはただ一つではないでしょうか。「人生を拓きたい」。その思いで、こうして集まってこられたのではないでしょうか。 私自身、いまだ人生の道を求め、歩み続けている人間ですが、私もまた若い頃、道を求め、求めて、「どうすれば自分の人生が拓けるのか」という思いを持って歩んできました。
私自身、その思いを持って歩んできましたので、こういう場に集まり、何かを学ぼうとされている方々のお気持ちも、究極、「人生を拓く」という一点にあると思っています。
「人生を拓く」。これは誰にとっても極めて大切なことですが、では、人生を拓くために必要なことは何か。もとより、ビジネス理論や戦略論、ものの考え方やロジカルシンキングも大切です。また、キャリアプランやキャリア戦略も大切でしょう。しかし、実は「人生を拓く」という一点で考えるならば、最も大切なものはただ一つだと、私は思っています。
それは、「逆境力」です。逆境というものを越えていく力です。なぜなら、皆さんがどれほど優秀な方であっても、必ず逆境に直面されるからです。苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失、ときに病気や事故。人生においては、そうした逆境に、必ず皆さんも直面することになるでしょう。そのとき、皆さんはどのようにして、その逆境を越えていかれるのか。
しかし、この「逆境力」とは、単なる根性とか、忍耐力とか、執念といったものではありません。それだけでは、決して人生は、拓けない。実は人生には、最強の「逆境力」というものがあるのです。今日は、その話をさせて頂きたいと思います。それが今日のテーマです。
では、最強の「逆境力」とは何か。それは、この一つの覚悟を定めることです。「すべては導かれている」。そう腹を定めた瞬間、目の前の風景が大きく変わります。そして、不思議なほど、心の奥底から力が湧き上がり、目の前の逆境を越えていくための叡智が与えられます。
では、なぜ、この覚悟を定めなければならないのか。それは、目の前の逆境に「正対」するためです。そもそも、なぜ我々は、逆境を越えることができないのか。それは、実は、逆境の厳しさや大きさのためではないのです。我々が逆境の前で立ち尽くしてしまうのは、その逆境が大きいからでも、自分の力が無いからでもないのです。
我々が逆境を越えられない理由は、実は、その逆境に「正対」できなくなるからです。目の前の逆境に正面から向き合うことができなくなるのです。なぜなら、人間というのは、大きな逆境に直面すると、心が必ずこう動くからです。「ああ、なぜ、こんなことになってしまったのか」と考え、過去を悔いることに延々と心のエネルギーを使ってしまうか、「ああ、こんなことになってしまった。これからどうなってしまうのか」と考え、その不安で心が一杯になってしまう。未来を憂うことに、また延々と心のエネルギーを使ってしまうのです。
しかし、もし我々が、目の前の逆境に心を定めて正対することができれば、必ず、道は拓けます。力も湧き上がってくる。叡智も降りてくる。それにもかかわらず、その正対ができないのです。そのことを私は、私自身の逆境の体験を通じて学ばせて頂きました。今日はその話から始めてみたいと思います。
志を持って生きるとは、今を生き切ること
ちょうど35年前の1983年の夏、私は医者から非常に深刻な病を告げられました。医者の診断は、「もうあなたの命は長くない」というものでした。では、医者から匙を投げられ、死を目前にした人間は、どのような心境になるか。
地獄です。本当に日々が地獄でした。自分の体がどんどん崩れていくような感覚。そして、死が迫ってくる不安と恐怖。そうした日々は、「悪夢」という言葉すら生やさしく聞こえるのです。なぜなら、もし、それが「悪夢」であるならば、その夢から覚めれば、その苦しみも消える。
しかし、逆なのです。寝ている最中だけ「死の恐怖」を忘れられる。しかし、夜中に目が覚めると、刻々と命を失っていく自分が現実なのです。はっと目が覚めると、その現実が目の前にある。夜中に、何度もため息をつきながら、どん底のなかで日々を過ごしていました。
しかし、医者も見放し、頼るものも無い、救いも無い状況の中で、天は見放さなかったのでしょう。私の両親が、ある寺を紹介してくれたのです。それは禅寺なのですが、そこは難病や大病を抱えた方が行き、その多くが立ち直って戻ってくる寺だというのです。両親は、そこに行くことを勧めました。
しかし、私は、科学的な教育を受け、工学博士という肩書も持つ人間ですので、唯物論を信じる人間でした。だから最初は、「そんな怪しげな場所など・・・」と撥ねつけていたのです。「医者が見放したものが、助かるはずがない。寺に行ったぐらいで、治るはずはない」と。そう思っていたのです。しかし、やはり人間です。体の状態がどんどん悪くなると、最後は「藁にもすがる」という思いになりました。
それで、「もう騙されたと思って行ってみよう」という思いでその禅寺を訪れました。だから、心細い思いで山の中にあったその寺に着いたとき、そこに、何か不思議な治療法でもあるのではないかと期待していました。
しかし、その期待は、全く裏切られました。行ったその日から、鍬や鋤を渡されて献労をさせられたのです。農作業です。医者も見放した体の悪い人間に、農作業。最初は、「こんな労働をさせられるなら、入院していたほうが良いのでは・・・」と思ったほどです。ただ、そうは言っても周りの人々は農作業をされる。そこで、私も仕方なく一緒に作業をしていました。「こんなことをして何が治るんだ・・・」と思いながら。
いまでも、一枚の写真があります。その寺を訪れた初日、森の中を切り拓いた畑で撮った写真です。その写真の中には、一人の若者が立っています。休憩時間、鍬を杖のようにして幽霊のように立っている若者。当時の私です。
ところが、人生というものは、やはり、「大いなる何か」に導かれている。その初日から、大切なことを教えられたのです。その畑で嫌々ながら農作業をしていると、横から大きな声が聞こえてきた。それは、「どんどん良くなる! どんどん良くなる!」という声でした。思わず横を見ると、ある男性が必死に鍬を振り下ろしている。しかし、見た瞬間に分かりました。足が大きく膨れていて、「腎臓がやられている」ということが。
それで、休憩時間に、「どうなさったんですか」と聞くと、「いや、見ての通り腎臓をやられているんですわ。それで、何年も、病院に出たり入ったりして、もう医者は治してくれんのです。ただ、このままじゃ家族がダメになる。もう、自分で治すしかないんですわ!」と言われた。その瞬間、その方の言葉が、天の声のように聞こえたのです。「ああ、そうだ。自分で治すしかないんだ!」と。その瞬間、私は、大切な何かを掴み始めたのです。
そして、それから3日後ぐらいでしたか、その日の午前中は、山の中腹にある畑に行って皆で農作業をする日でした。私は作業で使う農具の当番で、一人ひとりに鍬や鋤を渡していくと、他の方々は、次々と坂を登っていき、農作業に向かっていきました。全員に農具を渡し、後片付けをして、私もずいぶん遅れて・・・、もう30分以上経ったでしょうか、「さあ、自分も作業に加わろう・・・」と、鍬を肩に坂道を登っていったら、最初の曲がり角に差し掛かった瞬間、ハッとする光景を見ました。それは、思わず目を疑う光景でした。
そこを歩いていたのは高齢の女性でした。足が悪いことは、見てすぐに分かりました。足を引きずるようにして、鍬を杖のようにして一歩一歩、坂道を登っていました。その悪い足を治したいということで、その寺にやってきたのでしょう。しかし、その歩みでは、懸命に坂道を登っていっても、畑に辿り着くのは午前中の作業が終わってしまう頃です。それは明らかでした。
しかし、その方の後姿から、強い思いが伝わってきました。「畑に辿り着けるかどうかはどちらでもいい。私は、この体で力を振り絞って、自分の力で登っていく!」。その必死の思いが伝わってきたのです。農作業に間に合うかどうかは関係ない。目の前の現実に正対し、全力を尽くして登っていくという、その静かな気迫が伝わってきました。
その強い思いと静かな気迫を感じたとき、まだ、迷いの中にあった私も、大切なことを気づかせて頂きました。私は心の中で手を合わせ、「有り難うございます。大切なことを教えて頂きました」と拝みながら、その方の横を通り過ぎ、登って行きました。いまも、そのときのことを思い出します。35年前の夏です。そして、こうした体験は、すべて、天が私に与えたものだと思っています。
そして9日目、ようやくその寺の禅師に接見できる時がやってきました。「ああ、禅師に話を聞いて頂きたい」と思い続けた日々の9日目です。夜、その禅寺の長い廊下を渡って、禅師と一対一の対座になりました。
禅師の前に座ると、聞かれました。「どうなさった」。その瞬間、堰を切ったように、語りました。自分が死に至る病に罹ったこと。医者から診断を受け、治る見込みがないことを告げられたこと。誰も救ってくれないどん底の中でこの寺へやってきたこと。そうしたことを、切々と語りました。そして、禅師の言葉を待つ一瞬。さぞや、深く勇気づけられる言葉が聞けるのではないかと思い、固唾を飲んで言葉を待ちました。しかし、禅師が言われた言葉は、一瞬、耳を疑うものでした。
「ああ、そうか。医者が見放したか。そうか。もう、命は長くないか・・・」「はい・・・」
すると、何と言われたか。
「そうか、命は長くないか。だがな、一つだけ言っておく。人間、死ぬまで、命はあるんだよ!」
一瞬、何を言われたのかと思いました。当たり前のことを言われたような気がしたからです。しかし、禅師は、その後、もう一つ大切なことを言われ、それで接見は終わりました。
長い廊下を歩いて戻りながら、「いま、何を言われたんだ・・・」と考えました。しかし、それは、どん底にいる人間の強さだったのでしょう。そこで、突如、気がついたのです。「そうだ、人間、死ぬまで命はある!その通りだ!」と。
けれども、自分はもう死んでいた。心が死んでいた。振り返れば、その日まで何ヶ月、心は、いつも、二つの思いで占められていた。「ああ、どうしてこんな病気になってしまったのか。もっと、健康に気を遣っていれば良かった。なぜ、こんな病気になってしまったのか。自分は、何と運が悪いのか・・・」。そんな風に、過去を悔いることに、延々と時間を使い、心のエネルギーを使っていました。
そうでなければ、「ああ、この病気で、どうなってしまうのか。どこかに助けてくれる医者はいないのか。いや、それは無理か。これから、どうなってしまうのか・・・」と。そんな風に、未来を憂うことに、延々と時間を使い、心のエネルギーを使っていました。
そのことに気がついたとき、先ほど、禅師が続けて言われた言葉が、心に甦り、腹に響いてきたのです。禅師は、何と言われたか。
「過去はない。未来もない。あるのは、永遠に続く、今だけだ。今を生きろ!今を生き切れ!」。
禅師の語ったその言葉が、心の奥底から甦ってきたのです。そして、そのとき、「そうだ! その通りだ!」と、何かを掴んだのです。禅師の「今を生き切れ!」という言葉が心に鳴り響く中で、私は、大切な何かを掴ませて頂いたのです。
そして、その瞬間、私は病を「超えた」のです。もちろん、その一瞬で病が治ったわけではありません。病気の症状そのものは、それから10年、続きました。しかし、その瞬間に、私は、病を「超えた」のです。なぜなら、そのとき、私は、こう腹を括ったからです。
「ああ、明日(あす)死のうが、明後日(あさって)死のうが、構わん!ただ、この病に対する恐怖のために、今日というかけがえの無い一日を無駄にすることは、絶対にしない!この病に対する後悔のために、今日というかけがえの無い一日を無駄にすることは、絶対にしない! たとえ明日、人生が終わりになるとしても、今日という一日は、絶対に悔いの無い生き方をしよう! 今日という一日を、大切に大切に、精一杯生きよう!」
そう、腹を括ったのです。そう、覚悟を定めたのです。そして、35年前のその日から、私は、その生き方を続けてきました。その結果、いま、皆さんの目の前にいるように、35年、生かして頂いたのです。本当に有り難いことです。
しかし、天の配剤とは不思議です。「今を生き切る」という覚悟で生きてきた結果は、ただ35年、命を長らえさせて頂いただけではなかった。それ以上に、不思議なことが起こったのです。日々、「今を生き切る」という生き方を続けていると、自分の中から、何かの可能性が花開き始めたのです。
例えば「直観力」。物事に対する直観的判断が鋭くなったのです。また、例えば「運気」。なぜか、人生において運気を引き寄せるようになったのです。それがなぜなのか、私には科学的に説明できません。ただ、現実の問題として、不思議なほどの直観力や運気が与えられたのです。
それは決して、私という人間が何か特殊な能力や才能を持った人間だったからではありません。この会場にいらっしゃる皆さん、どなたも、これから申し上げる「五つの覚悟」を定めて修行をされれば、人生において、不思議なほどの何かが与えられます。もし皆さんが、病があるかないかに関係なく、「今日という一日しかない。今日という、かけがえの無い一日を、精一杯、生き切ろう」という生き方をされたら、必ず、皆さんの中から、眠っていた可能性が大きく開花していきます。
では、そうした生き方をするために大切なものは、何か。
「志」です。世の中のために、多くの人々の幸せのために、自分の人生を通じて、何か良きことを成し遂げたいという「志」。その「志」を深く心に抱いて生きるとき、我々の人智を越えたことが起こります。
例えば、このグロービスというビジネススクールの創業者の堀さん。もちろん、素晴らしい才能を持ち、人並外れた努力をされている。そして、見事な人柄もお持ちです。ただ、それだけでは、決して、これほどのことが展開することはない。なぜ、堀さんの周りに、これほどの多くの方々が集まり、素晴らしい活動が生まれてくるのか。
それは、何年も前に書かれた一冊の本ではないですか。『吾人の任務』。この本からは、「自分の人生、この志のために捧げる!」という覚悟が伝わってきます。その深い志があるから、一人の人間の人智を超えた世界が生まれてくるのです。
皆さんが、このビジネススクールで学ばれるのであれば、何よりも、この「志を抱いて生きる」という、その一点をこそ学ばれるべきでしょう。皆さんが深い志を抱かれるならば、必ず、「大いなる何か」に導かれます。そして、皆さんの想像を超えたことが起こります。
では、「志を抱いて生きる」とは何か。それは、単に「未来に実現する理想を心に抱いて生きる」ことではありません。「志を抱いて生きる」ことの本当の意味は、「今日という一日を、精一杯、全力を尽くして生き切る」という意味です。
もし、皆さんが、その生き方をされるならば、不思議なことが起こります。なぜか、必要なタイミングで、素晴らしい人と巡り会う。なぜか、必要なときに、素晴らしい仲間が集まってくれる。なぜか、見事なタイミングで、有り難い縁が生まれる。そうしたことが起こります。
それが、我々の人生の真実です。
田坂 広志
多摩大学大学院教授 田坂塾・塾長 世界賢人会議Club of Budapest日本代表
東京大学卒業、同大学院修了。工学博士(原子力工学)。1987年、米国シンクタンク・バテル記念研究所客員研究員。1990年、日本総合研究所の設立に参画。現在、同研究所フェロー。2000年、多摩大学大学院教授に就任。社会起業家論を開講。同年、21世紀の知のパラダイム転換をめざすグローバル・シンクタンク、ソフィアバンクを設立。代表に就任。2008年、世界経済フォーラムのグローバル・アジェンダ・カウンシルのメンバーに就任。2010年、4人のノーベル平和賞受賞者が名誉会員を務める世界賢人会議、ブダペストクラブの日本代表に就任。2011年、東日本大震災に伴い、内閣官房参与に就任。2013年、全国から4800名の経営者が集う場、「田坂塾」を開塾。著書は80冊余。