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2022年07月26日

2022年07月26日

「新しい資本主義」における能力開発支援 未来を描く「人への投資」のあり方とは

林 恭子
グロービス経営大学院 教員

今年の5月31日、岸田政権は「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」を発表し、6月7日に閣議決定がなされた。

発表の中では「人への投資と分配」、「科学技術・イノベーションへの重点的投資」「スタートアップの起業加速及びオープンイノベーションの推進」、そして「GX及びDXへの投資」の4つが、新しい資本主義を実現するための重要な計画として掲げられている。

特に「人への投資」に関しては、およそ100万人の能力開発に対し、3年間で4000億円規模の投資がなされるという。一体なぜ、そして具体的には何が、この政策によってなされるのだろう。

未来の成長戦略には「人への投資」が必須

「新しい資本主義」。これは岸田総理が2021年9月の自民党総裁選の時から掲げていたものなので、ほとんどの人は耳にしたことがあるだろう。日本では一定のあいだ続いてきた、新自由主義(市場や競争に任せればうまくいくという考え方)的な政策の結果、経済的格差が拡大し、過度な海外依存による経済安全保障リスクも高まってしまった。「市場の失敗」や「合成の誤びゅう」(例えば、個人にとっては将来不安に備えて支出を減らし貯蓄を増やすのが得策と思えても、皆がそうなると市場が冷え込み、全体として更に景気が悪くなる)という言葉で説明されるような状態になってしまったので、今後は、良い形で国が市場に介在しながら、官民協力して社会的課題を解決していこう、というのが「新しい資本主義」の意味するところである。

さて、その国家の方策を定めるためには、必ず事前に押さえておくべきことがある。それは、これからの未来はどうなるのか、という予測だ。
今後の世界を想像してみよう。AIやデジタル・テクノロジーの革新は加速し、今後一層ビジネスも生活も大きく変わるだろう。また、地球環境への対応無しには、水や食料、資源のひっ迫も免れない。カーボンニュートラルやグリーン成長戦略の重要性も増すだろう。……では、こうした領域にすぐに力を発揮できる日本国民は、一体どれくらいいるか?そう、圧倒的に少ないことは予想に難くない。もうお気づきのことと思うが、「人への投資」なしに日本の未来の成長戦略を描くことは難しいのだ。

4000億円の使い道 ヒトの何に投資される?

では「100万人に、3年間で4000億円規模の投資」を通じて、日本は具体的に何を目指すのか。実はこの4000億円の投資にも、明確な方向性がある。それは「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」に明記されている、「スキルアップを通じた労働移動の円滑化」だ。

成長分野への労働移動と高度人材の学び

「労働移動」はつまり、ビジネスを取り巻く環境変化により、今後需要のある職種は大きく入れ替わるので、労働者にも衰退産業やニーズのない職種にとどまり続けるのではなく、成長分野に移って行ってもらう必要がある、ということだ。成長分野とはどこかと言えば、前述の通り、直近ではデジタル分野やグリーン分野となるだろう。中でも企業のDXを推進する高度人材には、社外の大学院や専門機関などへも学びに行ってもらう必要がある。同時にそうした企業派遣制度を導入する企業への助成も厚くなる。

生産性向上を目指すデジタルスキルの習得

また、日本はこれから一層労働力人口が減少する。ただでさえ、日本の労働生産性の低さは先進国中でも際立つため、生産性を上げるためにデジタルスキルの向上は必須だ。実行計画書の中にも、「働く世代のデジタルスキルの底上げを図ることにウェートを置く」と明記されている。よって、労働者のデジタルスキル習得や、労働生産性を上げるための学び直しにも多くの費用が使われるだろう。

積極的に職を選択するためのキャリアコンサルティング

もうひとつ興味深いのは、計画書の「スキルアップを通じた労働移動の円滑化」項目の副題に「自分の意思で仕事を選択することが可能な環境(学びなおし、兼業推進、再就職支援)」がついていることだ。「自分の意思で……」というのはつまり、勤務先の経営が傾いて失職したり、企業の中で配置換えされてからやむを得ず学び始めるのではなく、労働者自らも積極的に新たなスキルを学んで、成長産業へ転職したり兼業したりすることを促すのだという。そのため、4000億円の内訳に、キャリアコンサルティングを受ける費用も含まれるのだ。今回の計画には、非正規雇用の方も4000億円投資の対象に含めることが明記され、より多くの労働者が成長分野で活躍されることが期待されている。

日本の人的資本投資施策は、まだこれからの領域

4000億円を国民の能力開発に投資すると聞くと、インパクトある施策だと感じる方も少なくないだろう。当然、好ましいことではある。

しかし、事実はそう甘くはないかも知れない。みずほリサーチ&テクノロジーズの調査によれば、日本の民間企業の人的資本投資(GDP対比)は0.3%と主要先進国で最下位に近い水準で、最も多い英国のわずか6分の1だという。元来、日本は伝統的にOJTに重きを置き、新たなことを学ぶためのOff-JTに力を入れてこなかった背景がある。公的な教育訓練投資支出額の方も、同様に先進国中最低レベルだ。最上位のデンマークの投資金額は、なんと日本の20~30倍にも上るという。ということで、日本はこれまでが、人の能力開発への投資をしなさ過ぎたという見方もできよう。
徐々に、4000億円で十分なのかという不安が過る方も出てきたのではないだろうか。同じくみずほリサーチ&テクノロジーズの試算によれば、5年間で日本の潜在成長率(2015~19年平均で0.7%程度)を欧米並みの成長率(同1.6%)へ引き上げようと思ったら、官民合わせて、年間3.9兆円の投資が必要になるという。文字通り、桁が違うのである。

試算のやり方には様々な見解があるかも知れないが、揺るがない事実が存在することは明確だ。それは、人の能力開発に対する投資なくして、企業の成長、そして日本の成長はない、ということだ。
この問題には、国だけでも企業だけでもなく、一人一人の労働者もまた、当事者意識をもって臨む必要があろう。良い意味での危機感をもって自己を成長させ続けられる人にこそ、明るい未来が待っているのかも知れない。

<参考>

林 恭子

グロービス経営大学院 教員