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投稿日:2021年04月05日

投稿日:2021年04月05日

『旅の効用』-旅がもたらす、変化を生き抜く力

牛田 亜紀
グロービス・ファカルティ部門マネジャー

人は旅をあきらめるのか?

コロナ禍で、旅行産業が大きな打撃を受けている。このまま人は、旅することをあきらめてしまうのだろうか。

コンサルティング会社のマッキンゼーは2021 年1月、ニューノーマルに関するレポートの中で、個人旅行はビジネス旅行よりも回復が早いと予測している。探求して楽しみたいという人間の好奇心が無くなることはないからだ。

旅がもたらすものは楽しみだけではない。旅することは、心身の健康に効果があるということを示す研究は多くある。日常のしがらみから離れ新しい経験をすることで、ストレスを軽減し、鬱や燃え尽き症候群を抑制すると言われている。

本書『旅の効用:人はなぜ移動するのか』は、自身も無類の旅好きで、インドを中心に世界のあちこちを旅してきた著者による、旅にまつわる思索の詰まった一冊だ。

著者のペール・アンデション氏は、スウェーデンのジャーナリストであり作家、そして北欧でも古参の旅行誌「ヴァガボンド」の共同創業者でもある。2021年のバレンタインデーに邦訳版が発売になったばかりの前作は、インド人青年が恋に落ちた相手に会うためインドから彼女の故郷スウェーデンまで自転車で旅し想いを果たすまでを描いた実話で、欧州を中心に話題をさらった。 

旅先の何気ないシーンを生き生きと表現し、旅行記としても楽しませるが、本書の魅力はそれだけではない。自身も含めた旅する人々をジャーナリストらしい細やかな眼で観察し、旅にまつわる文学や哲学、学術研究などにも照らしつつ、旅がもたらす思考や感情の動きに思考を巡らせる。

旅は何を変えるのか?

非日常を楽しむ旅もあるが、本書でテーマとなる旅は「その土地の日常に浸る旅」だ。駆け足で観光地を見て回るより「大事なのは、時間をかけて現実と接触すること」だというのが著者の考えだ。飛行機よりも列車やバス、ヒッチハイクや徒歩の旅を好む。訪れた国の数を増やすよりも、同じ場所を何度も訪れる。決まった計画はなく、なりゆきにまかせる。

スマトラでは川舟に乗って何時間もかけて移動し、現地の通勤客とともに甘いコーヒーを飲む。砂漠を旅するときはラクダに揺られ、小さな町で何世代も暮らす靴屋の兄弟の家に泊まる。北京の小路では、店先に座る老人と小さな茶器でお茶を飲み、言葉もわからないまま時間をともにする。世界各地で日々続く平凡な暮らしの中の、こうした小さな出会いこそが記憶に残る。

全く異なる土地で出会った人と過ごすと、訪れた地に憧れる自分がいる一方で、自分が離れてきた世界に憧れを抱く人がいる、ということに気づく。著者の言葉にもあるように、「今までずっと宇宙の中心と思ってきた場所が周辺になり、逆に以前は縁だと思っていたところが中心になる」のだ。いつものパターンだけでなく、脳内に新しい思考の流れができる。「認知的柔軟性」が刺激される瞬間だ。

認知的柔軟性とは、外部環境に応じて知識や認知を再構成し、考え方を柔軟に変化させるスキルだ。創造性とも関連が深いとされており、新型コロナの影響で生活様式もビジネスのルールも変わる中、これまでのやり方に固執せず問題解決を見つけるための重要スキルとも言われている。異国を旅することは、認知的柔軟性を高める、効果的な方法の1つなのだ。

本書では、「旅をすることで、人はどのように変わるのだろうか」という疑問にこたえるべく、現地の人たちとの交流を要する数カ月の外国旅行が若者の心理にどう影響するのかを調べた興味深い研究が紹介されている。5年以上にわたり1000人以上を対象として行われたこの調査からは、旅をした人は、旅の前までは当たり前と思っていた事柄について新しい見方をするようになる、ということが判明した。さらに、好奇心が増し、新しい環境や予期せぬ出来事に遭遇しても、容易にストレスを感じなくなっていた。訪れた地の習慣に合わせ、自身の言動を調整することを学ぶと、新たな体験に対する恐れが減り、オープンになる。精神的にも安定し、創造的になるという。

どうやら旅は、私たちに多くの効用をもたらす、必要不可欠なものらしい。

「不機嫌という病を治すには、自分の安全領域から外に飛び出すことだ」

旅から帰ると息が詰まり不安を感じることは、旅好きにはよくある。著者は、「自宅に世界を招く」ことで不安解消をはかった。民泊をはじめたのだ。世界各国からの旅人と話し、何気ない日常を共有する。不安は薄まり、身の回りの日常への愛着も増していった。旅を楽しむためには、帰れる場所があり、そこが幸せな状態であることが前提だ、と著者は言う。

実は筆者も、著者のペールさんのお宅に泊めていただいた旅人のひとりだ。著名なジャーナリストであることは全く知らなかった。かつては大きな工場だったという頑丈な建物を改築した、洒落た集合住宅にあるお宅は、長く愛用しているに違いない木製の家具に、ところどころ彩るインド風の装飾がマッチした、居心地のいい空間。家族みんなで一人旅の私をごく自然に受け入れてくれた。ペールさんが本場さながらにいれたチャイをごちそうになり、家族と一緒に朝食をとり、さまざまな話をした。筆者にとって「いつかまた帰りたい場所」の1つとなっている。

世界を分断する憎しみは、不安からはじまる。そして、こうした不安のほとんどは、見知らぬ事柄に対する無知、故郷以外の世界を知らない経験不足が原因だと筆者は確信する。旅は、自身のコンフォートゾーンから外へ出て見知らぬことに出会う、最も簡単な方法だ。自由に移動できない今だからこそ、旅をする気分で読んでいただきたい一冊だ。

旅の効用:人はなぜ移動するのか
著者:ペール・アンデション(Per J. Andersson) 発売日 : 2020/1/24 価格:2,420円 発行元:草思社

牛田 亜紀

グロービス・ファカルティ部門マネジャー

早稲田大学第一文学部心理学専修卒業、神戸大学大学院経営学研究科博士前期課程修了(経営学修士)、英国University of East Anglia, Development Studies修了(農村開発修士)。

大手鉄道会社にて鉄道事業、スポーツ・レジャー事業の戦略立案・事業運営に携ったのち、経営学修士取得を経て英国に留学、途上国開発の分野でフェアトレードをテーマとした研究で修士号を取得。ビジネスを活用した開発を目指し南米チリにて地方都市の観光開発戦略策定に携わったほかコスタリカにて在コスタリカ日本大使館経済担当専門調査員として経済政策分析・ビジネス支援等に携わる。グロービスでは教育プログラムの設計や教材開発等に従事。