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「やりたいことが分からない」
そう多くの若手が悩んでいます。
一方で、「キャリアの転換点の8割が、本人の予想しない偶然の出来事によるもの」とも言われています。
では、「やりたいこと」を見つけた人たちは、どのような転換点を経て今の道を見つけたのでしょうか?
今回インタビューしたのは、仙台に拠点を置くセンコン物流株式会社で、本社スタッフとして安全推進活動や業務改善活動をしている佐藤祐樹さん。
新卒で専門商社に営業職として入社後、「この仕事向いてないかも」と悩んだ末に退職。
故郷である宮城へUターンし、兼業農家である実家を手伝いながら穏やかな日々を過ごすも、31歳の時に「行くなら今しかない」と、1年7ヵ月の世界一周の旅へ...。
「ケセラセラ(なんとかなるさ)」を地でいく佐藤さんに、これまでのキャリアと人生観についてお伺いしました。
<聞き手&文:新宅千尋>
(Zoomにてお伺いしました!)
学生時の一人旅で「人類みな兄弟」スイッチON
ー佐藤さんは、生まれも育ちも宮城なんですね。
そうですね。
朝ドラ『おかえりモネ』の舞台にもなった、宮城県登米市に実家があります。
自然豊かでのんびりとした、いわゆる「田舎」ですね。
大学の時は、青森で一人暮らしをしていました。
(兼業農家をされているご実家の田んぼ。空が広い...!)
ー学生時代は、どのように過ごされていたんですか?
小中高はずっとサッカー少年で、本なんて全然読んでなかったのですが、大学時代は小説や芝居などの文化芸術にどっぷりとはまっていました。
うちの大学には演劇部がなかったので、市民劇団の方へ顔を出したり。
映画もよく観ていましたね。
大学4年間で、400本近く観てます。
この時に、「広い分野への関心といろんな人への好奇心」という今の価値基準の素地ができたような気がします。
あとは、旅ですね~。
20歳の時に屋久島に行ったんですよ。
ここで、完全に一人旅にはまってしまいました。
格安で行ける所を探して、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムなどの東南アジアを周ったり。
見たことのない景色や、異なる価値観・文化に出会うことが、本当に楽しくて。
「人類みな兄弟」スイッチが入り、とにかく誰にでも興味を持つようになりました。
(タイ北部にて首長族の子と)
ライフネット生命保険の創業者・出口治明さんが、「自身の世界を広げるには『人・本・旅』が大事だ」とおっしゃられていますが、まさにそれを地で行っていたような気がします。
そうこうしているうちに、順調に旅行熱が高まっていって、3年次には休学を目論みました。
(タイのお父さんたちに囲まれて)
ーえっ、休学ですか?
「どうせなら日本一周したいな」と思い始めたんです。
そのために、1年間ガチで休学しようと。
でも、当然資金が必要ですよね。
旅費を稼ぐために夏休みを利用して、埼玉にある携帯工場で、働きました。
かんばん方式の「水すまし」という作業らしいのですが、組立作業が途切れないように部品をただただ補充するという、実にシンプルな仕事です。
そして、2ヵ月間缶詰で働き続け、手に入ったお金が60万円くらいだったんですね。
日本一周をするための資金としては、まだまだ心細い金額。
その時、「これは休学とか言ってる場合ではないな」と妙に冷静になったんです。
モラトリアムを謳歌しすぎると、この先仕事すら選べなくなるかも...と危機感を覚えました。
変なタイミングで現実に引き戻され、「青森に帰って就活がんばろう」と日本一周の夢はあっさりと幕を閉じました。
「この仕事向いてないかも」入社7年目、悩んだ末に退職
ー休学は踏みとどまったんですね。新卒では専門商社に入社されていますが、どのような仕事をしていたんですか?
機械工具や工業用副資材を専門に扱っている商社で、営業職をしていました。
「トップセールスになってやる!」と意気込んで入社したのですが、時は2008年、リーマンショックど真ん中。
業界はもちろん会社自体売上もがくんと下がっていたのですが、「景気が悪いから仕事の成果が出ない」と言い切れるほど仕事も一人前にできず、なかなか結果が出せない状態でした。
ーしんどい時期に入社されたんですね...。
「世の中、甘くないなあ」と、とにかく耐え忍ぶ日々でしたね。
そのような中、27歳の時に三重県に転勤になったんです。
環境が変わったら上手くいくかもと淡い期待を持ち、心機一転で頑張っていたのですが、仕事ぶりが大きく変わることはなく。
「俺、やっぱり仕事できないな...」と再認識させられ、もう自己肯定感はどん底の状態ですよ。
同僚もポツリポツリと辞めていく中で、「どうしようかな、辞めようかな。でも今辞めたら迷惑かけるし、気まずいな」と悩んでいたら、所属していた支店が統廃合の対象になったんです。
ようは、人員が減る事による支店の仲間の負荷が緩和されるなぁと。
「あ、このタイミングだったら通常退職よりは、周りに迷惑がかからない。これは神の思し召しだ」と思って、入社7年ぴったりで退職しました。
(退職を決意するまで、かなり悩んだそう)
ー退職後の方向性はもう決まっていたんですか?
会社には「米農家になる!」なんて言った癖に、実は決まってなかったんですよね。
「とにかく一回ゆっくりするか~」と地元・宮城に戻った矢先、父の病気が分かって。
父の付き添いをしながら、兼業農家だった実家の米作りを手伝っていました。
幸い早期発見だったこともあり順調に治療は進み、そのまま半年くらい寛解の知らせを待つまでのんびり過ごしていたのですが、だんだんと両親の「就職しないの?」という圧を感じ始めたんです。
ちょうど31歳になる手前。
会社員時代の貯えも、まだ残ってたんですね。
「行くなら今しかないよな」と思い、世界一周の旅に出ました。
31歳、世界一周の旅へ
ーこのタイミングで世界一周旅行へ...?ご両親の圧を感じながら?
はい(笑)。
いつかは行ってみたいと思っていたのですが、「社会人になったら行けないよな」と諦めていたんです。
なので、「しがらみのない今だ!」と。
バックパック1つで、神戸港を出港しました。
日本を離れていたのは、1年7ヵ月。
結論をいうと、世界一周はできなかったんですよ。
当初の予定では、アジアを抜けてアフリカに行き、ヨーロッパ周遊後アメリカ大陸に入って、北上してオーロラ見て終わりなんて壮大なフィナーレを考えていたのですが、結局南アフリカでストップしちゃったんです。
計画の3分の1くらいですよ(笑)。
(南アフリカの喜望峰にて)
ー1年7ヵ月は、けっこう長い期間に思えますが...?
世界一周の定義って、難しいんですよね。
ピンポイントで主要国を数ヵ月で訪問し、「はい、世界一周!」という人もいます。
僕はあんまりそうゆうのに興味がなくって、自分が行きたい所をマイペースにのんびりと行ければいいかなと思ってたんです。
結局、600日間で訪れたのは30ヵ国。
平均すると、一ヵ国20日くらいの滞在。
きっちりとした計画はなく、「どういうルートで行こうかな。次はどの国に行こうかな」と、気の向くままに行っていました。
ー旅行中の印象深いエピソードをぜひ教えてください!
お〜、よく聞かれるヤツだ(笑)。
では一応ビジネススクールのインタビューなので、多少そう言った切り口で話しますね。
『動』的なエピソードとしては、今話題のミャンマーとアフリカのシエラレオネです。
私の行った頃は、ミャンマーは軍事政権から民主化に移行し、シエラレオネは長く続いた内戦から立ち上がって十数年という状態でした。
最近はタイムマシン経営という言葉がビジネスでも使われますが、成熟した日本では感じる事のできない転換期をこの目で見れた事で、マクロ視点の感度がついたと思います。
(たくさんのお店が並び、にぎわいを見せるミャンマーの線路脇)
例えば、裸足で鼻水垂らしながら小銭に握りしめて駄菓子買う子どもの健気さだったり、商店街の屋外テレビをみんなで群がって眺めてる活気だったり、ビール片手に小競り合いする男達の荒々しさだったり(笑)。
思いっきり具体的エピソードですが、具体と抽象、マクロとミクロの反復訓練としても、旅はいいのかも知れません。
(シエラレオネの子どもたちと。みんないい笑顔です)
『静』的なエピソードだと、やっぱり瞑想合宿ですかね〜。
インドのガイドブックにも載らない観光客なんて寄り付かないところに行きました。
10日間声を出さない、読み書きしない、他者と目線合わせず、食事と睡眠時間以外はほぼ瞑想する、という一見過酷な事をやりました。
宗教色はないので、引かないで下さいね(笑)。
最近ではマインドフルネスと言って、ビジネスマンにも瞑想が取り入れられていますが、瞑想の起源にも近いあの体験は人生の中でも貴重な体験でした。
今でも少し疲れたりモヤモヤすると、あの10日間を思い出して数分でも瞑想したりします。
(インドの瞑想施設。内装がどうなっているのかも気になります)
ーなぜ世界一周の旅を途中で終えたんですか?
家族からの強制送還ですよ(笑)。
兄が結婚式するから帰っておいで、と。
帰る理由って、元々2パターンしかないと思ってたんです。
1つは、世界一周を達成して自分の意志で帰る。
もう1つは、冠婚葬祭。
祖父が高齢だったので、覚悟して出発していたのもありました。
結婚式に参加して、兄嫁さんに挨拶もして、「じゃあ、もう出発するよ」となったんですが、家族が完璧に結託しちゃったんです。
「あいつを出しちゃダメだ。もうさすがに帰ってこないかもしれない」って(笑)。
そして、心配する両親をみかねた兄が「職が決まっていないなら、俺の所を手伝え」と。
なし崩し的に、地元の小さな税理士事務所に事務員として入社しました。
なし崩し的に、兄の税理士事務所に入社
ーそのまま首輪を着けられちゃったんですね(笑)。
「いつかは戻るんだろうな」とは、思ってたんですよ。
でも、予想以上に早い帰国になってしまいました。
旅行中も目減りしていく貯金を見ながら、「次の仕事、どうしようかな~」とずっと考えていたんです。
長く旅をしていると、みんな聞くんですよ。
「日本に戻ったら何するの?」って。
実家で米作りをしている時に、「地元で働くのもいいよな」と思っていたので、定型句のように「地元で本格就農するか、就活するか。どちらか」と答えていたんです。
ただ、兄の所で働くというのは、完全に予想外。
2月に入社して、その翌々月の4月に、ビジネスを学ぼうとグロービス経営大学院に通い始めました。
(グロービスの入学式パーティ)
ーこれまた突然ですね(笑)。ビジネスを学ぼうと思ったきっかけは?
たしかに突然と言えば、突然ですね(笑)。
理由は、大きく3つありました。
1つ目は、当時の環境が「なんだか物足りないなあ」と思ったからです。
実家住まいだし、事務職だし。
2つ目は、旅行中に「帰国したら学び直したい」と頻繁に思ってたからです。
約3年間、社会から離れて社会人として骨抜きになっていたので、禊(みそぎ)といいますか、復帰する前に勉強しておきたいな、と。
3つ目は、地元の経営者と話をする中で、「何か武器が欲しい」と思ったからですね。
職場では、兄をはじめ会計に強い人はたくさんいたのですが、クライアントが求めているものって、それだけではないんですよね。
経営というものを幅広く学んで、もっと本質的なアドバイスができるようになれば、今後強みになると思ったんです。
ーグロービスに入学後は、何か変化はありましたか?
多様な職業とバックグラウンドを持つクラスメイトとの交流が、新鮮で面白かったです。
入学する前は、ビジネススクールってバリバリのイメージで、「浮くかなあ?」とちょっと心配してたんですよ。
たしかに名刺交換すると、「大手だ!支店長だ!社長だ!」ということも少なくないんですが、授業後の飲み会だと、いい意味で"ふつうの人"なんですよね。
学ぶ目的も本当に様々で、「『昇進のため』などといって、エリートや意識高い系がステップアップを目的にくる場所というわけではないんだな」と思いました。
(授業後の飲み会)
そのあと、本入学したタイミングで、「これ以上兄の所にいても、しょうがない」と思ったので、退職しました。
帰国を懸念する理由の一つだった祖父が95歳で亡くなったのもこのタイミングで、転換期のスイッチが2回くらい押された気がしました。
地方だと起業助成金が出るので、せっかくビジネスを学んでいるし、実践もかねて何かしようと考え始めたんです。
1年7ヵ月の旅での経験は、やはり自分にとってすごく大切なもので、「海外の人に何か恩返しをしたい」という想いがあったんですよね。
なので、「海外人材×インバウンド」で、新たに事業ができないかと考えました。
グロービスのクラスメイトで海外人材の監理団体に所属している人がいたので、事業計画について壁打ちしてもらったり、ニーズ調査のため地元企業にヒアリングをしたり、ゲストハウスのための物件を探したり、各種近しい団体に協力要請にいったり。
4ヵ月ほど、起業に向けてアグレッシブに行動をしてみました。
ただ、二手目三手目を考えた時に、なんとなく自分の中で決め手に欠けたんです。
「経営戦略的に筋が悪いかも...」と思い始め、最後の最後で踏みとどまりました。
(社会課題としては解決していない領域なので、今も関心は強いそう)
コロナ禍で無職⇒就職。未だに転職エージェント経由の入社はゼロ
ー起業するには、かなりの決断がいりますもんね。
無念は残るも、その期間無職だったので、現実問題お金は減っていく...。
「これはやばい」と思い、職探しを始めました。
そんな時、Facebookのポップアップで、実家近くにある通所介護事業所の「総務や経理ができて、幅広く経営に関わってくれる人を募集しています」という広告が出てきたんですよ。
その介護事業所は、たまたまグロービスの仲間が勤めていた所で。
「えっ、御社募集してるんだね。俺とかいけそうかな?」と話したら、「ぜひ来てください!」とのことだったので、すぐに面接を受けに行きました。
祖父の介護経験もありましたし、地元のおじいちゃん&おばあちゃんと話すことも好きだったので、働くうちにこうゆう仕事も悪くないなと思いました。
ー新たなやりがいを見つけたんですね。
これまでの経験を通して、社会課題として「農業、地方創生、観光、海外人材の活用」に興味があったのですが、これを期に「福祉、医療」も身近な課題になりました。
ただですね、入社して翌年、コロナが流行し始めて、主たる医療・介護系資格のない私は、きっと思うように貢献できなかったんだと思います。
結果契約も更新されず、また無職になりました。
「困ったなあ」なんて話をグロービスの仲間にしていたら、同期の一人が「よかったら、うちを手伝ってくれない?」と声をかけてくれたんです。
その同期は、センコン物流株式会社という、東北の老舗運送会社の事業継承者だったんですね。
「ぜひ!」ということで、二度の役員面接を経て、今年の6月に入社しました。
まだ4ヵ月ほどしか経っていませんが、今は本社スタッフとして仕事をしています。
ー佐藤さんは、人生自体がまるで「旅人」のようですね。これからどこに向かっていくんでしょう?
どこに向かっていくんでしょうね?
とりあえずオーロラは目指さないと思います(笑)。
ただグロービス講師の方が言っていた、等身大の『ノブレス・オブリージュ(=高貴さには義務が伴う)』にとても感銘し、こっそり拝借しております。
私自身たいして恵まれてないですけど、旅をはじめ、これまで実にいろんな人に助けられました。
なので、今度は自分もどこかで役に立ちたいと。
大きなことも言えそうもないので、今は縁ある人々と誠実に向き合うことじゃないかと。
あれ、まずい、具体性がないぞ(笑)。
まずは今の会社で求められた価値を出して、それなりの生活基盤も築ければと。
なんだか急に慎ましくはありますが、本当にそう思います。
(佐藤さんの今後のキャリアも気になります!)
ー最後に、やりたいことが分からず、自身のキャリアに悩む若手にメッセージをいただけますか?
何か明確な夢や目標があって然るべき。
今現在、みなさんにそう言ったものがあれば、それは素敵な事だと思います。
ただ同じくらい迷ったり、ルートを大胆に変える事だって認められる時代かと思います。
作家の村上春樹さんが『30歳成人説』を唱えています。
「自分が本当にやりたいことなんか、そう簡単に判るものではない。30まではいろんなことをやって、30になってから人生の進路を決めればよい」と。
私も29歳で1社目を辞めましたし、言われてみるとグロービス仲間のボリュームゾーンも30代ではないでしょうか。
学び直しの環境下で出会った仲間達とこれからの行き先を語りあったり、なければじっくりと炙り出していく。
そんな2〜3年があってもいいのかと思います。
VUCAな時代だからこそ生き方も多様であって欲しいと思います。
ー佐藤さん、ありがとうございました!
著者情報
新宅 千尋(グロービス経営大学院 大阪校 スタッフ)
神戸大学理学部生物学科卒業、京都大学大学院生命科学研究科修士課程修了。幼少期より「思考や感情の発生」に興味があり、独学で心理学や脳科学を学ぶ。一方、「内なるものの表現」にも関心があり、10年ほどアトリエ教室に通う。学士/修士課程では脳の再生の基礎研究に従事。新卒で大手総合通販会社に入社後、Webマーケティングチームに配属。心理学や行動学の知識とアトリエ教室で培った感性を融合させ、売上や購入率向上に貢献。その後、社内から「人の力」で会社を強くしていく人材教育領域に興味を持つようになり、次世代のビジネスリーダー育成と輩出を目指す、グロービスに転職。グロービス経営大学院のコンテンツメディア企画チームに所属し、自身のキャリアに悩んだ経験から、グロービスキャリアノート制作・運営に携わる。
※本記事の肩書きはすべて取材時のものです。