目次
「やりたいことが分からない」
多くの若手が悩んでいます。
一方で、「キャリアの転換点の8割が、本人の予想しない偶然の出来事によるもの」とも言われています。
では、「やりたいこと」を見つけた人たちは、どのような転換点を経て今の道を見つけたのでしょうか?
今回インタビューしたのは、小学生向けインターナショナル・アフタースクール『ハウマイツ』を運営する本部剛さん。
大学時の就活では「企業で働く」ことがしっくりとこず、ファッションデザインを一から学ぶべく専門学校へ入学。
二度目の就活を経て就職をするも、ブラック企業で心身ともに消耗。
SNS経由で見つけた転職先では、オリンピックウェアのデザインを担当したりと大きく状況が好転。
34歳で独立してからは、さまざまなサービスを立ち上げ、現在は『ハウマイツ』の運営にまい進されています。
これまでのキャリアで、幾度も大きな方向転換と学び直しを経験してきた本部さん。
ターニングポイントではどのように決断をしてきたのか。
立ちはだかる壁や逆境をどのようにして乗り越えてきたのか。
本部さんの異色のキャリアをお伺いしました。
<インタビュー・文:新宅千尋>
デザイナーを志し、ファッション専門学校へ入学
ー本部さんはちょっと変わったキャリアをお持ちですよね。大学を卒業した後に、ファッション専門学校に入り直したとお伺いしました。
そうなんです。
神戸大学で西洋史を専攻していたのですが、いざ就職活動を始めた時に「企業で働く」ということが自分にとってなんとなくしっくりと来なかったんですよね。
独立心が強い性格のせいもあるかもしれません。
いろいろと進路について悩む中で、元々興味のあったデザインの道に強く惹かれるようになったんです。
周囲からの反対もまったくなかったわけではありませんが、両親は私の意志を尊重してくれ、ファッションデザイン専門学校に入学しました。
ーゼロからのスタート。入学してかなり苦労されたのでは...?
苦労しましたね。
大学ではアカデミックな勉強ばかりですが、専門学校では全然頭の使い方が違うんです。
ざっくりとしたテーマを与えられて、自主制作を短期間のスパンでどんどんとこなしていかなければいけないのですが、基本的に正解がない世界なので、良い/悪いでいうとアカデミックな考え方でたどりついた答えは全部最低レベルなんですね。
過去のものを模倣するだけでは、ダメなんです。
いかにこれまでになかった新しいものを作るか、いかにこれまでのロジックから外れるか。
自分の中で「すごく良いのができた!」と思っても、最低レベルの点数を取ることもふつうにあります。
入学して最初の半年間は、本当に大変でした。
ークラスメートの中でも本部さんは異色のバックグランドですよね?
めちゃくちゃ異色ですよ。
高校を卒業したての18歳の子たちばかりの中、自分一人だけ23歳。
会話が成り立たず困りました(笑)。
でも、ファッション専門学校に行く子の半分くらいは途中でいなくなっちゃうんですよ。
30人いるクラスの中で、結局デザイナーになるのは1人くらい。
ー厳しい世界ですね...。
なので、「ふつうにやっていてもダメだな」ということで、他の人とは違うことをなるべくやろうとしていました。
量でいうと、「人の3倍やろう」とか。
24歳の時にパリへ2年半留学に行ったのですが、そこでもひたすらデザインの勉強をしました。
課題をこなしつつ、学外のコンテストにも積極的に出場していたので、超多忙でしたね。
でも、すごく楽しかった。
パリの開放的な雰囲気にも合っていたのかもしれません。
若い人でも精神的に自立していて考え方が大人だし、高度なデザインの話もばんばんできる。
忙しくも、刺激的な日々でした。
(パリ時代にデザインしたドレス)
ーコンテストに出場していたのは、賞を取るとキャリアに箔がつくからでしょうか?
一応、そうですね。
優秀な人はコンテストに作品を出しまくって賞をとりまくる、というのが一般的です。
「独立してデザイナーになりたい」と考えていたのですが、いきなり事業を始めて軌道に乗せるのは難しいと思ったので、やはり何らかの形で評価されておく必要があるなと。
基本的に、ふつうにいくとデザイナーにはなれないんですよ。
ーそれは、狭き門だからですか?
狭き門というかね、もう門自体がないんですよね(笑)。
なので、ゲリラ戦しかないんです。
みんなでコンテストに出たり、ゲリラ的にイベントを企画したり、インターンでもぐりこんだ先で上手くコネクションを作ったり。
愚直に良いデザインを描いているだけではダメなんですね。
才能があるのは当たり前。
努力するのも当たり前。
カオスな中でトライしまくって、さらに運もいる。
そんな世界だったので、パリで就職活動をしたのですが、結局デザイン関連の職が見つからず、日本に帰国しました。
日本初!?のSNS経由の転職で大手スポーツアパレル会社へ
ー日本でも就職活動をされたんですか?
そうですね。
27歳の時、ようやく社会人生活がスタート。
デザイナー職で入社することができました。
ただ、入った会社が超ブラック企業で...。
平日は、朝の9時に出勤し夜の12時に退勤。
さらに、土曜日出勤も常態化。
週80時間労働で、残業代はゼロ。
とにかく非効率な会社でしたね。
体力的にもハードだったので、日曜は心と身体を休める時間でしかなかったですね。
ー念願のデザイナー職ということで、仕事自体にはやりがいを感じられていたんですか?
それが、デザインらしいデザインの仕事は、全体の25%くらい。
あとは、雑用みたいな仕事やとにかくスピード重視の仕事。
そのような中、10年間お付き合いした彼女から別れを切り出されたんです。
精神的にまいって不眠になりました。
体力も消耗していく中で、「何とか寝なければ」と思い、入眠しやすいように仕事終わりにジムへ通って運動したり、寝る前にハーブを吸ったりしていました。
ー合法ですよね...?
ちゃんと合法ですよ(笑)。
ふつうのハーブです。
ただ、仕事のことも含め「このままではいけないよな」と思い、現状打破をするために土曜の夜や日曜を使って制作活動をはじめました。
どうしていいか分からないものの、引き続きデザイナーの方向では行きたいと考えていたので、転職活動も視野に入れつつイベントなどを行いながら、新しい出会いを作るために動き始めました。
ー現実に対する焦りや不安が原動力になっていたんですね。
それでね、たぶん日本初だと思うんですよ。
SNS経由で転職するの。
当時流行っていたmixiで、運よく次の職が決まったんです。
ー今はFacebookやLinkedIn経由の転職も多いですもんね。そもそもmixiは職探しのサービスではないですよね...?
知らないでしょ、mixiって(笑)。
短い文章を書くというよりは、ある程度まとまった文章をブログのような感覚で書くようなサービスなんですね。
匿名でのコミュニティ機能が強くて、Facebookよりも趣味の集まりみたいなものが作りやすい。
当時、スポーツウェアに興味が芽生え始めていたものの知見がなかったので、勉強のためにスポーツウェア関連のコミュニティに入ったんです。
そこで、デザイナーを探している企業に勤めている方と知り合って、そのご縁で29歳の時に大手のスポーツアパレル会社に入社しました。
ースポーツアパレルの大手ですね!働き方も変わったのでしょうか?
大きく変わりましたね。
相変わらず忙しくはあるんですが、デザインの仕事をちゃんとさせてもらえることが大きかったです。
一番やりがいを感じたのは、2010年のバンクーバーオリンピック用のウェアのデザインを任された時ですね。
社内には、国内事業部隊と海外事業部隊がいるんですが、僕は後者の方に所属していて。
オリンピックのウェアは海外事業部隊が担当するということもあり、抜擢されました。
ーすごく良いタイミングで入社されたんですね!
本当にそう思います。
前職の時に比べ、仕事もプライベートも劇的に良くなりました。
プライベートでも余裕が出てきたので、趣味のワイン会なんかも開いたりして。
友人も増え、妻と出会い、結婚しました。
独立直後、妻の妊娠が判明。事業を軌道に乗せるため必死で働く日々
ー仕事もプライベートもどんどんと充実していったんですね!
ただ、3年弱ほど在籍して少しずつ気持ちに変化が生じてきました。
大きな会社の中にいると、やはり生産背景や工場の仕組みなどを考慮しながらのデザインが求められるんですね。
デザイナーの仕事自体はすごく楽しかったんですが、「より大きな枠で自由に作りたい」と考えるようになったんです。
そうしたタイミングで親族がやっている会社から声をかけられました。
リサイクル関連の会社で一から学ぶことも多かったのですが、より経営に近しいことができることに魅力を感じ入社しました。
ーこれまでと仕事内容がガラリと変わったと思いますが、いかがでした?
デザイナーの仕事以外は経験がなかったので、苦労はしましたよ。
親族の会社ということで事業継承みたいな側面もあり、体系的に経営を学ぶべく、グロービス経営大学院の体験クラスに参加し、そのまま入学しました。
力や知識も身についてきたという感覚はあったのですが、親族との関係が上手くいかずに、結局34歳の時に退職し、独立しました。
ー思い切った決断ですね!
「独立したい」という気持ちはずっとあったんですよ。
ただ、そのわりにずるずると後回しにしている感じもありました。
年齢的なこともあったので、踏み切りました。
ただ、独立して1ヵ月後に妻が妊娠していることが分かって。
逆だったら独立してなかったかもしれませんね。
この時、夫婦ともに無収入だったので、生活費を稼ごうと必死でした。
自分で企画したギフト用の絵本を販売するECを立ち上げたのですが、とにかく成果を出すまでが大変でした。
朝から晩まで張り付いてサイト運用を行って、ようやく8ヵ月目くらいにまともな生活を送れるくらいの売上が立つようになりました。
その頃には一部アウトソースをしたりとフリーの時間も増えてきたので、別事業を立ち上げていこうと、株式会社プライメッジを設立しました。
それからは、トライ&エラーの日々です。
ちょっと試してみて、ダメだったらやめる。
「ダメだな」というのは、わりとすぐに分かるんですよ。
―具体的にどのような事業をトライされていたんですか?
例えば、グロービスの仲間と共に飲食アプリを立ち上げた際には、Globis Venture Challengeで受賞し評価いただいたにも関わらず、2ヵ月でチームを解散。
やってみて初めて分かったのですが、飲食店向けのWebサービスは営業力で売上が決まるですね。
それなりの規模の人海戦術が必要だったのですが、かけられるコストが限られていたため断念したんです。
37歳の時には、CtoCのシェアリングサービスを始めました。
テレビ番組に取り上げられたりもしましたが、「根本的に価値提供で問題があるな」と感じたので、あまり力を入れずに半年くらいで安く売却しました。
その後、Skype教育コース販売のプラットフォームや、非プログラマー向けのプログラミング教育サービスを立ち上げました。
ただ、会社を設立して2~3年経ったころにですね、Webサービス業界の環境が大きく変わってきまして。
これまでは「一人で開発する」というスタイルがまだ世の中で受け入れられていたんですが、それが次第にWeb系サービスの競争が激化してきて「開発はチーム」というように切り替わっていったんです。
さらに、コーディングについても勉強すべきことがどんどんと出てくるという状況でした。
起業家との両立が難しく感じ、開発者としての技量を上げていくことはストップしました。
「娘の将来のために」英語力と創造性を育むアフタースクールを設立
ー取り巻く環境が大きく変わってきたんですね。
「事業ありきではなく、自分ならではの事業を作ろう」
そう考えるようになり、39歳の時に今運営している小学生向けインターナショナル・アフタースクール『ハウマイツ』を立ち上げました。
きっかけは、ちょうどその頃、妻がネイティブということもあり、娘をインターナショナルの幼稚園に通わせていたことにあります。
卒園後は日本語の小学校に行くことになっていたのですが、「バイリンガルに育てたい」という気持ちが強くあったため、英語力の低下を危惧していました。
さらに、元々デザイナーということもあり、創造性教育にも関心があったんです。
「英語力」と「創造性」。
幼少期からこの2つの能力を養う良い方法はないだろうかと調べていたのですが、「これだ!」というものがなく、自分で作ることを決めました。
(ハウマイツの授業風景)
ー自身が直面していた課題からスタートしたんですね。
当初はあまり事業拡大のことは考えず、「とりあえず1教室作ろう」と始めました。
開校の1週間前に外国人講師が帰国してしまうトラブルが発生したり、サマースクールの準備が大変すぎて8kg痩せたりと苦労はしましたが、「娘の将来のために」という想いがあったため頑張ることができました。
本当に朝から晩まで働きましたね。
そして、ある程度軌道に乗ってきたタイミングで、夢を見たんです。
競合が自分の教室の近くで開校して、学生が皆そちらに移って事業クローズするという夢です。
「とりあえず1教室」と運営していましたが、「急いで事業を拡大せねば」という思ったんです。
一気に4教室に増やしたのですが、ここからがとにかく大変でした。
新しい教室ということで採算性は取れておらず、最初の教室以外はすべて赤字。
組織としてのカルチャーが出来上がっていない状態でスタッフを増やしたので、社内もカオスに。
毎月100万円の赤字に、スタッフの離脱。
精神的にも体力的にも辛い日々が続きましたが、大きな借り入れをしていたこともあり、無我夢中で現状の改善に努めました。
1年ほど赤字の状態が続き、信頼できるスタッフも増えてきた中で、ようやく事業も安定してきました。
一方で、「もっと刺激が欲しいな」と思うようになり。
EdTech系の新規事業を企画したり、昨年はスケーラブルな事業モデルを目指して『booming6.0』というアクセラレーションプログラムへ参加したりと、新しい挑戦へと動き始めている所です。
ー「経営者になって10年目」とおっしゃられてましたが、濃い10年ですね。これからの展望もぜひ教えてください。
年数でいうと「まだまだ」といった感じです。
『ハウマイツ』を立ち上げて、「自分のため」から「子どものため」に働くようになりました。
今もそうですが、今後も次世代を担う子どもたちのための仕事をしたいと思っています。
あとは、テクノロジーをもっと積極的に導入していきたいという気持ちもあります。
ー最後に、やりたいことが分からず、自身のキャリアに悩む若手にメッセージをいただけますか?
おそらく、「そういったタイミング」が来るまでは分からないと思いますよ。
例えば、子どもができたりとか、親しい人に何かあったりとか。
それ以前は、「やりたいことが分からない」が前提なのではないでしょうか。
僕もずっとよく分かりませんでした。
逆に、「守るべきものがない」状態ともいえるので、より大きなチャレンジはしやすいかもしれませんね。
若い時に、困難な状態を経験しておくのもおすすめです。
そうすると、後々壁にぶつかった時のインパクトが薄れていくんですよね。
やりたいことが現状ないのであれば、より困難な方を選択してみてください。
じっとしているよりも学ぶものが多いですし、これまでは見えなかったものが見えてくるかもしれませんよ。
ー本部さん、ありがとうございました!
著者情報
新宅 千尋(グロービス経営大学院 大阪校 スタッフ)
神戸大学理学部生物学科卒業、京都大学大学院生命科学研究科修士課程修了。幼少期より「思考や感情の発生」に興味があり、独学で心理学や脳科学を学ぶ。一方、「内なるものの表現」にも関心があり、10年ほどアトリエ教室に通う。学士/修士課程では脳の再生の基礎研究に従事。新卒で大手総合通販会社に入社後、Webマーケティングチームに配属。心理学や行動学の知識とアトリエ教室で培った感性を融合させ、売上や購入率向上に貢献。その後、社内から「人の力」で会社を強くしていく人材教育領域に興味を持つようになり、次世代のビジネスリーダー育成と輩出を目指す、グロービスに転職。グロービス経営大学院のコンテンツメディア企画チームに所属し、自身のキャリアに悩んだ経験から、グロービスキャリアノート制作・運営に携わる。
※本記事の肩書きはすべて取材時のものです。