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「 やりたいことが分からない」
多くの若手が悩んでいます。
一方で、「キャリアの転換点の8割が、本人の予想しない偶然の出来事によるもの」とも言われています。
では、「やりたいこと」を見つけた人たちは、どのような転換点を経て今の道を見つけたのでしょうか?
今回インタビューしたのは、福岡県糸島市で学生寮やゲストハウス、カフェなどの運営をしている大堂良太さん。
元々は、大手総合商社の丸紅で働く「ザ・エリート」。
華やかなキャリアや都会生活を手放して、なぜ大学時代を過ごした福岡へ戻り、『合同会社よかごつ(※)』を立ち上げたのか。
お話を通して、経歴や肩書からは決して見えない、大堂さんの人生観や哲学が見えてきました。
※よかごつ...熊本の方言で、意味は"好きなように、やりたいように"。
<インタビュー・文:下垣裕美子、新宅千尋>
(Zoomにてお伺いしました!)
「原体験の多くがここにある」学生時代の思い出が詰まった寮生活
―大堂さんは今、福岡にいらっしゃるんですね。
糸島市という、福岡の中心地・博多から電車で40分ほどの所で暮らしています。
半島部分が海に面しており、山や田んぼが多く、本当に自然豊かな場所ですよ。
(海山に囲まれており、新鮮でおいしい農水産物がすぐに手に入るのも魅力の1つだそう)
糸島には2017年に、九州大学の学生を対象にした学生寮を運営するために、家族で移住しました。
1棟目は、築150年の明治時代に建てられた"忍者屋敷"のような超大型古民家を大家さんからお借りし、リノベーションしています。
(大堂さんが運営する『熱風寮』シリーズ、記念すべき1棟目)
2021年には、学生寮だけでなく、社会人混住型の起業家シェアハウス『熱風寮 前原西』の運営も新たに開始しました。
今では、シェアハウスを含め、計5棟を運営しています。
(2019年4月にオープンした『熱風寮 篠原』。天井が高くて気持ちよさそうなリビングスペース)
(2019年8月にオープンした『熱風寮 泉』。閑静な住宅街に位置し、外観は豪華な純和風建築)
(2021年3月にオープンした『熱風寮 師吉』。倉庫を改修して造ったオープンラウンジ)
ー大堂さんご自身も九州大学をご卒業されていますが、やっぱり学生寮に住まれていたのでしょうか?
大学と大学院で、計3つの寮を経験しました。
なので、思い出やそこで得た学びはたくさんありますね。
私の原体験の多くが、寮生活にあります。
たとえば...
大学1~2年時に在寮していた田島寮(※現在はキャンパス移転に伴い閉寮)では、年に一回、7月に寮祭が行われるのですが、最終行事として樽神輿を担いで、天神から寮のあった六本松までふんどし一丁で練り歩いてたんですね。
ふんどしの色は、赤・青・黄と3種類あり、どの色を履けるかは寮祭で行われる棟対抗のスポーツ競技などで決まるんですよ。
「どの色でもいいじゃん」と思うでしょ。
でもね、「えいさっ、ほいさっ」と掛け声とともに担ぎ歩いていると、道端のじっちゃん、ばっちゃんから水をかけられるんですよ、暑さ対策のために。
そうすると、黄ふん(黄色のふんどし)はかなり透けるんです(笑)。
「黄ふんだけは、なんとしても避けようぜ」と、みんな真剣に寮祭に取り組んでいました。
アホな事もたくさんしましたが、仲間と共になにかを創り上げる楽しさを体感しましたね。
何か課題が浮き彫りになっても、寮生みんなで議論して決めていました。
(寮祭にて友人と)
修士課程の時の寮は、家賃や寮食がとても安く(食事付1.8万円/月)、地域ボランティアなどの奉仕活動を寮生が主体的にやっている寮でした。
子ども向けのサマーキャンプや寺子屋、福祉施設への慰労訪問など、様々な活動を行いました。
地域と密に関わることの楽しさや意義を学ぶと同時に、寮の住人と地域の人が互いに持ちつ持たれつの関係を築くことで、「自分はここにいてもいいんだ」という安心感を得ることができました。
OB訪問で出会った商社パーソンに憧れ、丸紅へ新卒入社
ー大堂さんは、新卒で大手総合商社である丸紅に入社されています。入社のきっかけは?
大学院の時は、「カーボンナノチューブ」という素材の研究をしていたのですが、細かい作業や再現性を取るような実験過程が、性格上向いていないことに気づきまして(笑)。
就活をする中で、日本の技術の高さを世界に発信したり、つないだりする仕事に魅力を感じるようになり、商社を選びました。
「自分しかできない仕事を、世界を舞台にしてみたい」
そんな想いもありました。
また、OB訪問でお会いした商社パーソンがかっこよかった、というのも大きな理由です。
皆エネルギー値が高く、ハツラツと仕事をしている雰囲気でした。
中でも、丸紅の方とのOB訪問が印象深かったため、同社が第一志望になりました。
お会いしたOBの方が同じ九州大学出身で、なんと3~4人の同僚を連れて会食を催してくれたのです。
数多くいる就活生に対して、時間とお金をここまで費やしてくれたということに感動しましたし、素直にうれしかったのです。
ー入社後は、どのようなお仕事をされていたのでしょうか?
一貫して、「化学品・素材」に関する部門に所属していました。
営業から始まり、グループ会社への出向、その部署内の与信管理・債務保全などのリスクマネジメント業務、最後はグループ会社の法務・与信管理全般にも携わりました。
関わる同僚や先輩のほとんどは仕事に対するプロ意識が高く、非常に多くのことを学びましたね。
商社の昔ながらのトレーディング(貿易などを伴う輸出入仲介)事業に従事しており、社員一人一人がいわゆる個人商店の集まりで、顧客との関係づくり、商品の価格や納期交渉、物流のハンドリング、与信管理、利益管理など、経営で必要とされる要素の多くを経験することができました。
一言で「何を学んだか?」を言い表すことができませんが、丸紅での経験がなければ、今の糸島での事業を継続できていないと思います。
(実は、丸紅時代も社員寮に入っていたそう)
ただ、27歳の時に転機が訪れて...。
名古屋にある子会社に出向になったんですね。
通常は部長クラスが出向することが多いのですが、それよりも早い出向ということもあり、新しい土地でいきなり経験豊富な人たちに囲まれて仕事をしなければいけない状況は、かなりしんどかったですね。
29歳の時に東京へ帰任することになったんですが、アシスタントの方から冗談っぽく「あの時の大堂さん、死んだ魚の目してましたよ」と指摘されたりもしてました(笑)。
仕事の適性や仕事のスタイルに疑問を持ち始めたのも、この頃です。
商社の営業は、「タフネゴシエーター」と言いますか、どちらかと言えば体育会系で押しが強く、交渉好きなタイプが向いているんですね。
もちろんいろんな営業スタイルがあるので、そうした要素を満たしていなくても、上手く自分の営業スタイルを見つけて成果を出している人もいましたが...。
私はあまり押しが強くない性格だったので、「この仕事、向いてないかも」と感じることが多々ありました。
また、「夜は接待、残業は当たり前」という仕事のスタイルも、長く働くイメージを抱きづらかった要素の1つですね。
ー転職などは考えられたんですか?
自分の中で、「10年は絶対に続けよう」と決めていたので、まだそこまでは考えていませんでした。
仕事環境が好転したというのもありますね。
東京に戻ってからは、上司や同僚にも恵まれ、そこからは徐々に仕事とプライベートのバランスもとれるようにもなりました。
部門内のリスクマネジメント課に異動になったこともよかったと思います。
営業の仕事を支援する、いわゆる管理部門でしたが、「誰かをサポートするのが好き」という性格にも合っていたのでしょう。
この頃から、仕事を楽しむ余裕も出てきました。
ーなぜ「10年は続けよう」と考えられていたのでしょう?
実は、「40歳までに九州に戻って起業しよう」と大学時代に友人と話していたんです。
就活時に、商社業界を目指す有志数名で『熱風会』というグループを作って、互いの就活の進捗を共有したり、面接対策やES相互添削などをして励まし合ったりしてたんですね。
その仲間たちと将来のことを語り合う延長線上で出てきた話です。
「将来みんなで九州を盛り上げる会社を作ろう」「そのために、それぞれの持ち場で社会経験を積んで、スキルを高めよう」と。
自分の中でその時の言葉が大きく残っていたので、「いずれは九州に戻ろう」「でも10~15年は今の会社で学び、貢献しよう」という想いがありました。
(「九州で起業」という想いの原点はここにあったんですね)
ビジネススクールの入学をきっかけに、今の志が定まる
ー今運営されている事業は、もうすでに考えられていたんですか?
いえ、具体的に「何をやるか」までは全然決まっていなかったんですよ。
"志"が明確に決まったのは、31歳の時。
グロービス経営大学院への入学がきっかけでした。
元々グロービスで学ぼうと思った理由は、「ビジネスパーソンとして、より社内で貢献できるようになりたい」「ビジネススキルを一から体系的に学びたい」「社外の業界の人や、価値観の近い仲間とつながりたい」と考えるようになったからです。
でも、結果的にグロービスに入って一番良かったことは「志が定まった」ことでした。
田久保 善彦先生の『企業家リーダーシップ』や秦 充洋先生の『ベンチャー戦略・プランニング』など様々な講座を受ける中で、改めて人生を振り返ったときに、「今の自分の価値感や考え方に大きく影響している学生寮と、教育を掛け合わせた事業をしたい」と思うようになりました。
(『ベン戦』の最終授業のプレゼン大会で、優勝した時の記念写真)
ー「教育×学生寮」という、今の事業の方向性が決まったんですね。
はい。
そして、33歳のときに、約10年務めた丸紅を退職し、学生寮を運営している教育系NPO法人『NEWVERY』へ転職しました。
転職する1年半ほど前に、学生寮の市場調査をしていたのですが、NEWVERYは寮を単なる住む場所ではなく「共同生活を通じた教育の場である」と定義していたんですね。
私が思い描いていた寮の形とぴったりとはまったため、同社にヒアリングに伺ったところ、彼らが運営する寮に社会人メンター制度があり、「それをやってみませんか?」と勧められプロボノとして関わりがスタートしました。
それが本当に楽しくて。
学生寮に住んでいた時の思い出がじわじわと蘇ってきました(笑)。
1年間のプロボノを経て、実践的な寮運営のノウハウを学ぶべく、門をたたきました。
ただ、いざ転職をしてみると...。
54人が住む学生寮のハウスマネージャーとなり、仕事自体は楽しかったのですが、なかなか自分の思い描いていた寮の運営ができずに悩みました。
「3年は務めよう」と思っていましたが、「自分のやり方で寮を運営してみたい」という想いが強くなり、徐々に独立を具体的に考え始めました。
ーご家族へも起業の相談はされていたんですか?
そうですね。
転職する1年前(起業する2年前)に、大学時代~社会人にかけてお付き合いしていたパートナーと復縁し入籍をしたんですが、起業の話もちょくちょくしていました。
彼女は基本、私がやっている事業内容に関心ないんですけど(笑)、温かく見守ってくれてます。
実家が自営業ということもあって、自由に時間が使えることのメリットや、自分がやりたいと思えることに真剣に取り組むことへの理解はありました。
よく彼女は周りに「賛成はしなかったが、反対もしなかった」とコメントしていますが、反対しなかったことがどれだけ自分を勇気づけたか。
感謝しきれないですね。
立ちはだかった壁を突破し、めでたく1棟目をオープン
ー独立を意識し始めてからは、どのような取り組みをされましたか?
物件を見つけて、大家さんと交渉して、改修工事をして、入居希望者を募って...ということをしていたら、トータルで1年以上かかってしまうことは分かっていました。
なので、少しでも時間を短縮するため、NEWVERYでの勤務と並行して、独立&移住する半年前から、週末は東京と福岡を行き来して物件を探すなど、前準備を進めていきましたね。
ただね、壁にぶつかることもあって...。
「これだ!」と思える古民家物件に出会えた直後でした。
冒頭の築150年の大屋敷の古民家のことですね。
本当に立派な趣のあるたたずまいをしていて一目ぼれだったんですが、この古民家は「市街化調整区域」に建っていたんですよね...。
ー市街化調整区域...ですか?
国土交通省が自然保護などを理由にむやみやたらに開発することを禁じた地域のことですね。
糸島市でも6~7割の土地が該当するんですが、この古民家もそのエリアに建っていたんです。
そうなると、古民家を学生寮(寄宿舎)に用途変更することに対し福岡県知事の個別許可が必要になるんですね。
当時、民家を学生寮に用途変更する先例はほとんどありませんでした。
(周囲からも「やめとけ、無理だよ」と反対されたそう)
ー役所を動かすのは大変そうですね...。
そう思いますよね。
でもね、本当に「めちゃくちゃラッキーだ!」と思うことが起きるんです。
ちょうど私が物件を探していた2016年末に、「特定の条件がそろえば、市街化調整区域でも既存建物の用途変更をしてもよい」と国土交通省が条件緩和を全国の行政に通達したんですよ!
ー大堂さん、持ってますね!(笑)
ははは(笑)。
小さい頃から両親に「あなたは運がいいね」と言われて育ってきたので、事あるごとに「私は運がいいなあ」と思いながら生きている節はありますね。
初めて買ったロト6も当たったし、大学もギリギリ滑り込みで入れたし。
楽観的というか、何か困難にぶつかっても「なんとかなるだろ」みたいな。
粘り強く、負けず嫌いな性格もあるかもしれませんね。
「誰かが勝って誰かが負ける」というゼロサムゲーム的な価値観は苦手なんですが、本件については関係者同士がWIN-WINになれるシナリオが見えていたので粘れました。
ーその後、幸運は続きました?
ありがたいことに、続きました(笑)。
当時、ちょうど糸島で市街化調整区域での用途変更事例を取り上げているブログを見つけまして。
問い合わせをしたら、偶然にも執筆者が九州大学出身の先輩にあたる方だったんですよ。
その先輩が本当によくしてくださって。
木造建築を専門にされている地元棟梁の方や建築士など古民家改修に際して必要な人をご紹介いただくなど、さまざまな点でお力添えいただきました。
また、糸島市役所の地域振興課の担当の方もすごく親身に協力してくださいました。
一人では絶対にできないことですので、今でも当時関わってくださった皆さんには感謝していますよ。
(一棟目の開寮式の様子。地域の方々と寮生と共に)
一方で、学生さん集めに関しては、地道にできることをすべてを行いました。
独学で勉強してWEBサイトを作ってみたり、ビラ配りをしたり、SNSで広告を配信してみたり。
振り返れば、物件探しに始まった寮立ち上げ期間中、社会人生活で一番努力して執着した気がします。
結果、2017年9月に学生寮1棟目をオープンしたのですが、定員8名に対して、7名の学生に入居いただけました。
(開寮式当日。改修でお世話になった棟梁による粋な計らいで棟上げ用の装飾を)
「関わる人がイキイキするコミュニティ作りを」複数の事業で化学反応を起こしていく
ー今は学生寮以外にも、様々な事業を展開されていますね。
そうですね。
起業時にはまったく想定していなかったものばかりですが、寮を運営していく中で「寮だけではサポートできる学生に限りがある」と感じたため、古民家ゲストハウス 『糸結』や、カフェ『mulberry house』、シェアオフィス&コワーキングスペース『糸島よかとこラボ』、棚オーナー制古書店『糸島の顔がみえる本屋さん』なども展開しています。
(古民家ゲストハウス『糸結』)
(学生と地域の憩いの場 カフェ『mulberry house』)
(病院2階を活用したシェアオフィス『糸島よかとこラボ』)
(棚オーナー制古書店『糸島の顔がみえる本屋さん』)
そして、冒頭でも少しお話ししたように、2021年には社会人混住型の起業家シェアハウスの運営も開始しています。
こうした複数の事業を通して化学反応を起こしながら、関わる人がイキイキするコミュニティを創っていければと思っています。
(起業家シェアハウス『熱風寮前原西』。建物は築130年の大型邸宅をリノベーション)
そうそう!
起業家シェアハウスの住人が今年の12月(※インタビュー時:2021年10月)会社を興すことになったんですよ。
地域の子供たちにシェアハウスのスペースを使ってプログラミング教室を開く塾事業です。
記念すべき第一号の起業事案になり、とても嬉しいです。
(プログラミングに励む子どもたち)
ー社会人向けのシェアハウスも始めたんですね。ということは...将来的にグロービス寮も登場されたりしますか?
いいですね(笑)。
博多周辺あたりに、振替の他校のグロービス生やOB/OGが泊まれるゲストルーム付きだと、そこでさらなる交流が生まれそうですね。
実際に、古民家ゲストハウス『糸結』も、グロービス生が互援ネットや合宿などで利用頂いています。
都心部でも社会人向けシェアハウスは多くありますが、過多で差別化できていなく、ただ安くて初期費用が安いだけの印象です。
だからこそ、今後はコンセプトが明確なシェアハウスが注目されると思います。
コンセプトやターゲットが明確だと、同じ趣味や価値観を持った仲間が集まりやすいですよね。
ー最後に、やりたいことが分からず、自身のキャリアに悩む若手にメッセージをいただけますか?
時間やお金などいろいろな制約を外して、自分が本当にやりたいこと、好きなことを考え抜いてみてほしいなと思います。
同時に、やりたいことが見つかったら、粘り強く諦めずにやり通してほしいです。
せっかくやるからには、成果を出すことが一番幸せです。
私も4年半以上頑張って、実感しているところです。
あとは...ぜひ「根拠のない自信」を持ってください。
若い人ほど、相対的に経験や実績数が少なくなりますよね。
なので、一歩踏み出す勇気を持つには、「根拠のない自信」が一番の力になります。
「言葉で上手く説明できないけれど、なんとなくいけるんじゃないか。いや、できる気しかしない」という認知を自分自身で持つことが重要だと思います。
「『自分が本当にやりたいこと』って何だろう?」と考えてみて、それを「実現するんだ、やるんだ」と決断する。
そのやり方や進め方については一旦脇に置いて、圧倒的な「根拠のない自信」でアクションし、言葉にしていきながら周りにファンを作り、巻き込んでいくのがいいと思います。
ー大堂さん、ありがとうございました!
著者情報
下垣 裕美子
明治大学 政治経済学部地域行政学科 卒業、SOAS University of London IFCELS修了。グロービス経営大学院・マーケティングチームにてデジタルマーケティング領域の業務に従事。並行して業務委託で、スタートアップやリゾートホテルのマーケティング・広報戦略策定にもかかわる。東京生まれ東京育ち、海外生活など紆余曲折を経て、2020年3月以降は大分県に在住しながらリモート勤務。地方交付税だけに頼らない「稼げる地方」と、公共財の足腰を強くする「再分配」が現在の関心事。プライベートでは、シングルマザー。ご近所様の温かい手助けと実家の力をフルに借りて、サザエさん状態で子育て中。
※本記事の肩書きはすべて取材時のものです。