業界に新しい風を吹かせる

仕組みや商品に変⾰を起こし、組織を成⻑させる

自分のキャリアを
社会のために。
海外のよい製品を広め、
暮らしの選択肢を増やす。

フィスラージャパン株式会社

代表取締役社長

吉永 寛子さん

グロービス経営大学院2016年卒業

テンピュールに20年勤務し、日本に低反発マットレスと高級家具としてのリクライニングベッドという新しい製品を定着させることに貢献してきた吉永さん。「海外のよい製品を広めて新しい選択肢を提供することで、日本の暮らしを豊かにする」という「志」のもと、2021年4月にフィスラージャパンの代表取締役に就任しました。実はこの「志」が固まったのは最近で、当初は転職もまったく考えていなかったそうです。どのように「志」が醸成され、どうして転職を決意できたのか。お話を伺いました。

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ドイツの職人たちの
技と想いが宿る調理器具を、
日本の暮らしに

まずはフィスラージャパンのご説明と、どのような経緯で代表取締役になったのかお聞かせください。

フィスラーは1845年に創業したドイツの調理器メーカーです。海外では高品質なキッチンウェアブランドとして愛されていて、世界80ヶ国 以上で販売されています。私は2021年4月から、その日本法人であるフィスラージャパンの代表取締役を務めています。

それまではテンピュールに20年近く勤め、最後は直営店とEコマース、マーケティングの3部署を統括していました。フィスラーのお話をいただいたのは、以前からつながりのある海外の方からのご紹介でした。初めは転職をするつもりはなかったのですが話は聞いてみようと思いインタビューを受けたのですが、面談を重ねるうちにだんだん興味を引かれていきました。

昨今、高級調理器具メーカーの多くがアジア諸国に工場を移す中、フィスラーは創業から175年以上ほとんどの商品をずっとドイツの職人たちの手で作り続けています。高い技術力とクラフトマンシップの誇りを商品に込め続ける。この企業姿勢にすごく共感して、好きになりました。一方で、日本市場では商品の価値が正しく認知されておらず販路もクリアな戦略が無いため値崩れを起こしている。この状況を知り、「すごくもったいない」と感じました。

「海外のよい製品を広めて新しい選択肢を提供することで、日本の暮らしを豊かにする」というのは、私が「志」とするところ。前職の経験を活かしてお役に立てるかもしれないと、思い切ってお引き受けすることにしたんです。

海外に憧れた幼少期。
親の反対を押し切り
イギリスへ

確かに「海外のよい製品を広める」という点では、テンピュールとフィスラーで共通していますね。ずっとそういった「志」を持って働かれていたのでしょうか。

いいえ、若いころは「英語をつかって働きたい」「女性でもできることを証明したい」など、もっと利己的なモチベーションで働いていました。「志」がしっかりと定まったのは、転職する少し前のこと。いろいろな方からチャンスをいただき、新しい体験を重ねることで、少しずつ「志」が形成されていったように思います。

そういう意味では、「志」につながるきっかけを最初に与えてくれたのは両親でした。2人とも旅行好きで、私が幼稚園児のときに初めて海外旅行でグアムに連れて行ってもらいました。日本とはまったく違う街並みや食事、目に映る全てが新鮮で、子どもながらに自分の世界が広がった気がしました。

それ以来、「いつか海外で暮らしたい」と考えるようになり、高校卒業後は日本の大学に進学しないで、海外に留学する決断をしました。両親からは猛反対されましたね。でも私の決意は固くて、昼は神戸の港でフォークリフト作業、夜はスペインバルで働いて費用を稼ぎ、自力でイギリスに渡りました。イギリスでは2年間、現地の専門学校に通いました。暮らしてみると旅行のとき以上に日本と海外の違いを感じられ、自分の中の常識がひっくり返る瞬間が何度もありました。そのたびに自分の世界が広がり、毎日が楽しくなる。海外製品を日本に広めたいというのは、そういう感覚をたくさんの人に届けたいという思いから来ているのだと思います。

男女関係なく
挑戦のチャンスをもらい、
仕事の楽しさに目覚めた

ご自身の海外での体験が「志」の出発点だったんですね。その後日本に戻られて2000年にテンピュールに入社されました。どういう動機があったのでしょうか。

英語をつかって働きたかったことと、営業という仕事に興味があったからという単純な理由です。その2つの条件を満たしていたのがテンピュールでした。まだ女性の社会進出が今ほど進んでいない時代でしたし、私自身も長く働いてキャリアアップしたいとは思っていなくて、「いつか辞めるだろうし、それまで楽しく働けたらいいかな」という風に考えていました。

でも、そのときのテンピュールの社長がスウェーデン出身で男女平等の感覚を持っている方で、テンピュール自体もスタートしたばかりの小さな会社だったこともあり、いろいろな仕事を信じて任せてくれたんです。

信じてもらうと「気持ちに応えたい」と思うのが人間で、私も任された仕事は何でも「NO」と言わずに取り組み、必死になって結果を出した。そうするとまた新しい仕事を任されて、また試行錯誤して結果を出す。次第に働くことが楽しくなり、気付けば20年近く、営業、マーケティングや時に海外品のプロキュアメントなどいろいろな経験をさせてもらいました。

提供しているのは、
スペックの高い製品ではなく
豊かな暮らし

その時代に男女隔たりなくチャンスを与える社長もすごいですが、そのチャンスをしっかりとものにしていった吉永さんのパワーもすごいですね。20年のキャリアの中で、ターニングポイントになった出来事はありますか。

転機はいくつかありますが、私の中で1番思い出深いのは2008年。銀座にテンピュール初の路面直営店が立ち上がり、今までの卸主体のビジネスから直営店舗へ。店舗開発はもちろん、人材手配、販促計画を含む運営まで全て任されたことですね。

それまでのテンピュールは、百貨店や量販店などに商品を卸して販売していました。でも、百貨店では枕は寝装品売り場、マットレスは家具売り場という風にコーナーが分かれてしまうことも多く、セットで販売ができませんでした。そのため、海外では飛ぶように売れたマットレスが、布団文化の日本ではまったく売れず、テンピュールは枕屋と揶揄されていたんです。いかにマットレスの売上を伸ばすか、それがセールスマネジャーである私のミッションでした。

ところが、枕とマットレスをセットにしてディスプレイするだけでは売上は伸びず。百貨店の販売担当の方に話していたように「何年保証が付いている」「NASAの技術がつかわれている」などの商品スペックをPRしても、ユーザーの心には響きませんでした。思えば、ずっと百貨店に対して営業をしていたので、売り場の方との関係性を築くノウハウはあっても、ユーザーの方とダイレクトに関わるのはこれが初めて。入社9年目にして初めてマーケティングについて考えました。

そして試行錯誤を繰り返す中で、商品のスペックではなく、この商品を手にすることで、どういう暮らしが手に入るのかイメージしてもらうことが大切だと気付いたんです。例えば、リクライニングベッドも、当時の日本では介護のイメージが強くてなかなか受け入れてもらえませんでした。でも、眠りにつく前の30分がどう変わるのか、睡眠という生活シーンがどれだけ豊かになるかを訴求することで、リクライニングベッドは大ヒット商品になりました。このときの経験を通じて、自分が売っているのは、製品ではなく暮らしだと気付きました。

自信をつけて
一段上のキャリアへ
進むために、
グロービスへ

銀座直営店の立ち上げがうまくいき、その翌年にマーケティング部のマネジャーになったそうですね。すごく順調にキャリアを歩まれた印象を受けましたが、行き詰まったり悩んだ経験はありますか。

私自身は順調にキャリアアップしているという感覚はありませんでした。自己肯定感が低いほうだったので、むしろずっと自分に自信を持てずに悩んでいましたね。周りには私よりも優秀な人はたくさんいますし、マーケティング部のマネジャーになれたのもラッキーが重なっただけだと。語学はそれなりに勉強したけれども、ビジネスのフレームワークは何も分からないですし、元気の良さと「NO」と言わないことを売りに、現場の叩き上げでここまで来た。満足をしていたわけではないですが、自分の実力的にはこのあたりくらいかなと、次のキャリアアップへの意欲を持てずにいました。

そんなときに、社長が変わり、新しいボスがデンマークからやって来ました。その方から「もっと自分はできると信じなさい」「君の実力なら、こういうキャリアを積んでもっと経営に近いポジションまでいけるはずだから」とキャリアパスを描いてくれました。そして「ビジネスの知識がないことで悩むんだったら、ビジネススクールに行ってごらん」とアドバイスをいただき、グロービス経営大学院に通うことにしたんです。

働く意味が利己から利他へ。
リーダーの自覚が視野を広げた

なるほど、そこからグロービスにつながるんですね。実際、グロービスで得た学びは役に立ちましたか。

グロービスに通ったこともまた、私にとっての重要なターニングポイントです。期待していたアカウンティングやマーケティングなどの知識を得られましたが、そうしたテクニカルなこと以上に大きかったのはマインドやメンタルに関する学びでした。

ちょうどグロービスに通っていたころ、仕事でも大きな壁に直面していました。直営店事業が好調で店舗数が急速に拡大して、そのタイミングで私はマーケティング部から再び直営店営業部に本部長として戻ることになったんです。マーケティング部では私を含めて6名程度の組織だったのに、一気に150名くらいの自分のチームができました。

それまでの私は、自分が先頭になって動いて、メンバーに背中を見せて「ついて来い!」というタイプのリーダーでした。でも、ここまで組織が大きくなると全員に背中を見せることもできませんし、むしろ私のポジションは一番うしろにあります。それでまったく思うようにマネジメントができなくて、不満を態度に出してしまったこともありました。150名いたら150通りの気持ちがあるのに、当時の私は全員が私と同じ気持ちでいると思っていたんですよね。当然「ついていけません」というメンバーも出てきて、悩んでいました。

でも運良くこのタイミングでグロービスの「組織行動とリーダーシップ」や「パワーと影響力」「ビジネス・プレゼンテーション」といった科目で、人を動かすためのコミュニケーション術について学び、そこから自分の考え方を改めることができました。例えば、プレゼンテーションは伝わるまで繰り返し行う。伝えるだけでなく、みんなが実行しやすくなる仕組みまで作る。お願いがあるときは一方的に自分の意見を押し付けるのではなく、どちらを選んでも良いと思える選択肢を提示して、相手に選んでもらうといった風に。周りのことを考えて行動するようになると、組織が機能し始めたのはもちろん、私自身の仕事の向き合い方も利己から利他に変わっていきました。

そして、「志」を何度も自問する中で「海外のよい製品という新しい選択肢を提供することで、日本の暮らしを豊かにする」という答えに辿り着いたんです。

調理も食事の時間
として楽しむ暮らしを
届けたい

ありがとうございます。最後にこれまでのフィスラーでの成果と、今後の抱負について教えてください。

コロナ禍の影響と、私自身が代表取締役1年生ということもあって、まだ語れるほどの成果は上げられていませんが、この1年間は改革のための土台固めを行ってきました。物流や在庫管理など、高コスト体質の体制や販路によりばらつきがある商品の市場価格を見直したり、私自身がフィスラーの工場に訪問して商品の知識を得たり。これからもいろいろと仕掛けていければと考えています。

今の時代、時短レシピが流行るなど、家庭料理はどうやって楽をするかに関心が向いています。でも、選択肢のひとつとして、「調理をとことん楽しむ暮らし」というのもあっていいと思うんです。キャンプでこだわりのギアをそろえるように、調理器具も自分がこだわったものをそろえて、キッチンに立つ時間も食事の1シーンとして楽しんでいただく。よい調理器具をつかうと、何でもない簡単な料理こそ美味しく仕上がりますし、きっと心も満たされると思います。

また、プライベートでは、グロービスを卒業した後からサイドビジネスで週末にサイドジョブでヨガ、ピラティス、SUPヨガのインストラクターを始めました。さんざん頭を動かしたので、今度は体を動かしてバランスを整えようと思いヨガインストラクター養成講座に申し込みました。そしたら一気にハマってしまって、これからも続けていきたいと考えています。立場が変わり仕事が大変になるからこそ、仕事一辺倒にはなりたくない。常に新しいことに目を向けて、自分の世界を広げ続けていきたいです。

フィスラージャパン株式会社

代表取締役社長

吉永 寛子さん

神戸市出身。高校を卒業後、2年間イギリスへ留学。帰国後はP&Gでのジュニアセクレタリーを経て、2000年にテンピュールへ入社。直営店営業部、マーケティング部の本部長などを務め、2021年4月よりフィスラージャパンの代表取締役社長に就任。平日は社長業に勤しみ、週末はヨガとピラティスのインストラクターという顔を持つ。グロービス経営大学院2016年卒業。

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