仕組みや商品に変⾰を起こし、組織を成⻑させる

スペシャリストとして、世の中に働きかけていく

報道、企業変革、
大学教授。
人を幸せにするために
走り続ける。

京都先端科学大学

教授

山本 名美さん

グロービス経営大学院2013年卒業

急激な変化が当たり前の時代において、企業が成長を続けていくには、既存の枠組みにとらわれない柔軟な改革が必要です。山本さんは、長年にわたりテレビ東京で活躍し、エポックメイキングな報道スタイルを取り入れ、放送局のDX変革にも携わってきました。新たな取り組みを成功に導く秘訣は何か。これまでのキャリアとともにお話を伺いました。

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報道で、ひとりでも多くの人を幸せにしたい

山本さんは現在、京都先端科学大学で教授を務めていらっしゃいますが、以前は長年にわたりテレビ東京で活躍されていたと伺っています。まずは、テレビ東京でのご経験についてお聞かせいただけますか?

経済報道畑を長く歩みましたが、好奇心旺盛で新しいことを積極的にやりたいという気持ちが強かったので、いろいろな挑戦をさせてもらいました。WBS(ワールドビジネスサテライト)の名物コーナー「トレたま」の立ち上げや、女性初の特派員としてニューヨーク支局への赴任も経験。日本経済新聞社に出向して日経電子版の立ち上げに携わったこともあります。

2016年からは現場を離れて、放送局の変革を裏側から支えてきました。メディア戦略や技術戦略、データマーケティング戦略などに携わり、直近は、総合マーケティング局顧客データ統括部でデータガバナンスを担当しました。近年、放送局がデジタル分野の事業への進出を加速させ、大量のお客さまのデータを預かることが増えています。お客さまのデータを適切に管理して活用できる体制づくりと、データ活用に向けた社内の意識改革のために汗をかきました。

現場にいたときも、裏方として縁の下で支えていたときも、大切にしてきたのは「自分たちの報道で、自分たちのメディアで、いかに人々の生活を豊かにできるか」ということ。「志」と呼べるほど研ぎ澄まされたものではないかもしれませんが、「ひとりでも多くの人が、少しでも幸せになるように」という思いが私の根底にあります。

一般の人にはなじみがない経済報道を、もっと身近に

報道に対する使命感の伝わる、すてきな「志」だと思います。そういう想いはいつ頃からお持ちだったのでしょうか。

正直な話をすると、入社した当初は報道に対してそれほど熱い思いを持っていませんでした。学生時代は音楽バンドを組んでいて、ライブイベントのオーガナイザーを務めるほど精力的に活動していました。当時の日本経済はバブル景気にわき、就職活動は超売り手市場。金融業界に目移りしながらも、音楽が好きだったこともあって、漠然と文化事業に関わりたいと考えて、選んだ就職先がテレビ東京でした。

入社当初は事業か営業職を希望していたのですが、予想もしていなかった経済報道部に配属され、いきなりワールドビジネスサテライト(WBS)という看板番組のディレクターを任されました。当時のテレビ東京では、仕事は現場で覚えるのが当たり前だったんです。はじめは自分の無力さに苦しみましたよ。毎日のように母親に「辞めたい」と愚痴をこぼしていました。

でも、当時のWBSのメインキャスターがかわいがってくださり、仕事についてアドバイスをくださいました。その方は、毎日の為替や株価などの変動をシステム手帳に記録していて、「あなたも記録すれば、経済が面白くなるよ」と教えてくれたのです。初めは意味もわからないまま数字を付けていましたが、1年くらいして世の中の大きなニュースと手帳の数字が連動していることに気付いたんです。仕事が面白くなり始めたのは、そこからですね。

皮膚感覚で理解できると経済はすごく楽しい。でも、当時の経済報道においてそうしたリアリティーは、あまり重要視されていませんでした。経済は多くの人にとって分かりにくいけれど、知っているか知らないかで、生活の豊かさが大きく変わる。だからこそ、「いかに分かりやすく、身近なテーマとして伝えられるか」を追求することが報道する者にとって大切だと考えるようになりました。

製品を経済ニュースとして特集する、新たな報道スタイル

経済の面白さへの気付きが、「志」の醸成につながっていったのですね。経済を親しみやすく伝えるために、具体的にはどのようなことをされたのでしょうか。

思い出深いのは、「トレたま」の立ち上げですね。1998年、WBSのメインキャスターが変わるタイミングで、新しく目玉になるコーナーを作ることになりました。当時のチームメンバーに日経新聞の産業部から出向してきた記者がいて、まず彼が「産業ニュースをもっと取り上げたい」と意見したんです。また、その頃のWBSでは、サブキャスターに軽快なフットワークが売りの若手アナウンサーを起用していたので、「彼のキャラクターを活かしたい」という意見も上がりました。そうして、「フットワークよく全国の新製品や技術を開発している企業に取材し、それらをニュースとして紹介する」というコンセプトができあがっていったんです。

放送当初は、「新製品を扱うのはコマーシャルのやることだ」「これは経済報道じゃない」という批判も一部でありましたが、視聴者に受け入れられ、「トレたま」は今も続く名物コーナーに成長していきました。

私自身は「トレたま」を立ち上げた数か月後、特派員としてニューヨーク支局へ赴任しました。ニューヨークでも、できるだけ現地の情報を興味深く伝えるために「トレたま」の手法を取り入れましたね。例えば、自動車ショーで経済記者が車に乗りながらレポートするという光景は、今でこそ当たり前になりましたが、いち早く取り組みました。技術や製品を報道記者の視点で取り上げる「トレたま」の報道スタイルは、当時のテレビ報道においてエポックメイキングだったと思います。

グロービスで得たものは、人生を変えるいくつもの出会い

ニューヨークから帰国後、グロービス経営大学院にご入学されました。どのような動機があったのでしょうか。

最初にグロービスの門を叩いたのは、アカウンティングとファイナンスについて学びたいと思ったからです。1990年代後半から2000年代前半にかけて「不良債権問題」が大きなニュースになり続け、ニューヨークから帰国した直後の2002年には政府の金融再生プログラム(通称竹中プラン)をめぐり賛否両論が渦巻いていました。そのとき、質の高い報道を提供するには私自身の知識が不十分だと痛感したのです。

最初は単科でアカウンティングを取ったのですが、仕事が忙しくてなかなか修了できませんでした。時間をかけて何回かチャレンジしているうちに一緒に学ぶ仲間ができて、仲間に励まされているうちに気が付いたら大学院に入学していました。

実際グロービスでは、ファイナンスや経営に関するさまざまな知識を得ることができました。一方で、それ以上に大きかったのは「人との出会い」です。例えば、長くWBSのコメンテーターを務めていただいた梅澤高明さんとはグロービスで知り合いました。当時、梅澤さんは「経営戦略」の教員だったのですが、あまりにも話が面白かったので私がスカウトしたんです。また、「ベンチャー戦略」の授業でビジネスプランの審査員になってくれたSkyland Venturesの木下さんとの出会いも大きかったですね。木下さんの紹介でモーニングピッチというベンチャー企業のイベントに参加するようになり、たくさんのベンチャー企業を知りました。「失われた20年、30年」と言われて暗いニュースも多い中で、ベンチャー企業は勢い良く新しいことに挑んでいる。その事実を多くの人に届けたくて、WBSでは先駆けて多数のベンチャー企業を特集しました。

グロービスには「互援ネット」や「あすか会議」「クラブ活動」など、学生同士のつながりをサポートする仕組みがいくつもあります。そのおかげで卒業後も絆が続くというのは、とても良いですね。仕事や人生で悩むたびに、いろいろな分野のプロフェッショナルに相談して、貴重なフィードバックをもらえる。この利害関係のないネットワークは、一生の宝ものです。

一人だと「出る杭」に過ぎないが、周りを巻き込めば「変革」になる

山本さんは「トレたま」や「ベンチャー企業特集」など、報道において新しい試みをいくつも取り入れてきました。また、2016年からは組織づくりにも尽力し、3つの社内変革を成功させたと伺っています。新しいことに取り組む際、意識されていることがあれば教えてください。

新しいことを始めようとすると、当然何らかの摩擦が起こるものです。しかし、それを乗り越えて実行しないと物事は変わりません。若い頃は、がむしゃらに乗り越えるものだと思っていたので、自分の考えを無理にでも押し通そうとして、よく失敗しました。とくに私は喜怒哀楽がはっきりしていて、思ったことを瞬発的に口にしてしまう性分なので、余計な衝突を生んでしまうんです。そのやり方ではうまくいかないと気付いたのは、日本経済新聞社への出向がきっかけでした。

2007年から3年間、日経電子版の立ち上げに携わりました。新聞をWeb化するにあたって映像コンテンツも制作することになり、その企画の担当を任されたのです。ベテランの新聞記者である幹部の方からもいろいろ要望をいただいたのですが、テレビ番組の制作を本業とする私から見ると「もっとこうしたほうが良い」と思うことがよくありました。また、新聞社の中にも小規模ながら映像チームがあり、そのメンバーともしばしば意見が食い違いました。その度に、当時の私は一つひとつの意見に対して、自分の理想をぶつけて押し返そうとしたのです。

そんなある日、毎日のように気が立っている私を見兼ねた上司が、「項羽と劉邦」の話をしてくれました。項羽と劉邦は100回戦い、項羽が99勝したけれど、勝ったのは最後に1勝した劉邦だった。つまり、全てに勝とうとしないで、大事なところで勝ちなさい、と。私の性格上、なかなか劉邦にはなれませんでしたが、それでも口出ししたい気持ちを我慢して仲間に任せると、プロジェクトが少しずつ良い方向に進んでいるのが分かりました。

私が思うに、変革で大切なことは、1本だけの「出る杭」にならないことです。もちろん、「新しいことをしてはいけない」という意味ではありません。ただ、ひとりの頑張りで変えられることには限界があります。そうではなく、人を巻き込み、周りも一緒に押し上げていく。そうすることで、変革はスムーズに進みます。

どれだけ理想的な計画を描いたとしても、「人」を動かせなければ、変革は絵に描いた餅に終わってしまいます。社内のあちこちで志を持っているメンバーを見つけて、巻き込む。彼らの心の中の火を焚きつけ、あるべき姿を考えてもらい、みんなの意見として資料にまとめる。会議の前には、キーマンの意見を聞いて資料をブラッシュアップして、成功率を高める。そうした地道な作業を重ねて、大切な勝負所で勝ち切る。辛抱強さが必要です。

100万人に届ける番組から、5人に贈る授業へ

貴重なお話をありがとうございました。最後にこれからの目標について教えてください。

テレビ東京で自分ができることはやり切ったという思いがあり、区切りをつける意味で、2023年3月に早期退職しました。今後の人生についてはこれからゆっくり考えながら、まずは京都先端科学大学で学生を教えることに専念したいです。

デジタル技術が進み、情報取得の方法も大きく変化しています。そうした時代において、メディアとして情報を発信するだけでなく、受け取る側にいる人たちの教養=リテラシーに関わっていったほうが、より多くの人を幸せにできるんじゃないか。そう考えていたときに今回の話をいただいたので、とてもご縁を感じています。

私が取り組むテーマは「コミュニケーション」(人文学系)と「リーダーシップ」(経営学系)です。これまでの経験を活かして、私のように「出る杭」になりがちな人が、幸せで良く生きられるように応援したいですね。

実は非常勤の立場で2023年1月に「リーダーシップとコミュニケーション」という授業を初めて担当しました。内容を練り上げるにあたって、グロービスの仲間に協力してもらいました。事前に模擬授業を開いてフィードバックをもらおうと、私が所属している広報系とメディア系のクラブ活動で協力者を募ったところ、8人の方が集まってくれたんです。模擬授業は週末に2時間×4回実施しましたが、みんな貴重な週末を私のために費やしてくれて、応援してくれたことは、涙が出るくらいうれしかったです。

私の授業を受講した学生は5人。テレビなら1回の放送で数百万人に届く可能性もあるのですが、私にとって人数は関係ありませんでした。5人でもすごく充実した気持ちになりました。これからは伝えたい情報を電波に乗せずダイレクトに。教育を通じて、一人でも多くの人を幸せにするお手伝いをしていきたいです。

京都先端科学大学

教授

山本 名美さん

上智大学法学部卒業後、テレビ東京入社。経済ニュース番組「ワールドビジネスサテライト(WBS)」で長年取材・レポートを担当、ニューヨーク特派員や経済取材担当デスクなどを歴任。2007年から2010年まで日本経済新聞社に出向し「日経電子版」の立ち上げに携わる。2016年からはメディア戦略、技術戦略、データマーケティング戦略に携わり、放送局のDX変革を裏方として支えた。グロービス経営大学院2013年卒業。

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