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大企業から、
大好きなサッカーをライフワークに

ダイバーシティ社会実現のカギを握る、
「サッカー=コミュニケーション」の方程式

サッカーというスポーツには、いくつかの種類がある。フットサルやビーチサッカー、7人または8人で行うソサイチ、そして障がい者サッカー。障がい者サッカーにも種類があり、アンプティサッカー(切断障がい)、CPサッカー(脳性麻痺)、電動車椅子サッカーなど7つの競技団体が日本に存在しているが、その中でも唯一、東京パラリンピック正式競技として注目を集めているのが「ブラインドサッカー」(視覚障がいのある人によるサッカー)である。NPO法人日本ブラインドサッカー協会の事業戦略部長・山本康太さんは、サッカーという手段を通じて、障がいの有無に関わらず誰もが当たり前に「混ざり合う」社会の実現を目指しているひとりだ。

提供:日本ブラインドサッカー協会

2001年の日本上陸から、
急速に広まったブラインドサッカー

日本のブラインドサッカーの歴史はまだ浅い。1980年代初頭に生まれ、ヨーロッパや南米では普及が進んでいたが、現在プレーされている国際ルールが日本に上陸したのは2001年。そこから日本選手権の開催や日本代表を組織し国際大会への参加が盛んに行われるようになり、2020年の東京パラリンピックでは開催国枠での出場が決定している。

ブラインドサッカーは、弱視または晴眼のゴールキーパー以外、全員がアイマスクをつけた状態でプレーする。国内ルールでは弱視や目の見える人も参加できるが、国際公式試合ではフィールドプレーヤーは全盲の選手のみと決まっている。人は情報の約8割を視覚から得るとされている中で、選手たちはどのようにプレーしているのだろうか。

山本氏:ブラインドサッカーで重要となるのは「音」。転がると音が出るボールを使い、ボールを持った選手に向かっていくときは「ボイ!」(スペイン語で「行く」の意)という声を出します。また、敵のゴール裏に立つガイド(コーラー)、ゴールキーパー、監督という目の見える3人が選手に声で情報を伝えたり、選手同士が細かく声を掛け合いながらコミュニケーションをとりながらゴールを目指していくところも特徴です。そのため、プレーが切れたときやゴールが決まったとき以外は観客も無言で試合を見守ります。

私がブラインドサッカーに出会ったのは大学4年の頃。最初に試合を観たときの衝撃は今でも忘れません。「こんなサッカーがあるんだ!」と驚きましたし、視覚障がいのある人もない人も一緒になってプレーしている光景に純粋にワクワクしました。当時はまだこれが仕事になるとは思っていませんでしたが、今振り返ってみれば、私のサッカーに対する価値観を変えてくれた大きな出来事でした。

「自己満足」としてではない、
サッカーの新しい楽しみ方を知る

サッカー少年だった兄の影響で、4歳からサッカーを始めたという山本さん。小学6年生まで地元のサッカーチームに所属し、中学・高校はサッカー部で活躍した。

山本氏:プロになりたいという気持ちももちろんありましたが、それ以上に、好きなサッカーを楽しく続けていきたいという思いがありました。大学2年生のとき、日本の大学生とアジアの子どもたちがサッカーをするという国際交流イベントに企画から参加したのですが、そのときにふと気づいたんです。サッカーを楽しむには、試合に勝つことや自分が活躍することが大事だと思っていたけれど、本当は「みんなで一緒にボールを蹴るだけで楽しいんだ」ということに。

「自己満足」ではなく「コミュニケーション」としてのサッカーの楽しみ方を知った山本さん。日本にサッカー文化を浸透させる活動をしている団体に所属し、ゴール裏でのサポーター活動やパブリックビューイング運営、フットサル大会運営などにも携わるように。最終的には、約300名が所属する団体の学生代表まで務めたという。その活動の中で出会ったのが、障がい者サッカーだった。

山本氏:最初に知ったのは電動車椅子サッカー。チームの練習を見学しに行き、実際に電動車椅子に乗って体験もさせてもらいました。新しいサッカーの形を知ったことが嬉しくて、ほかの障がい者サッカーについて調べていたところ、興味を引かれたのがブラインドサッカーでした。さっそくイベントに参加し、独自のルールや試合のおもしろさに魅了された私は、そこから日本代表の応援や大会運営にボランティアとして関わるようになりました。

ただ、当時はサッカーを仕事にすることは考えていませんでした。就職先に選んだのも印刷会社。クライアント企業のプロモーション戦略やツール制作を提案する営業職でした。サッカー日本代表の試合では選手入場時のゴール裏に「ジャイアントジャージ」というユニフォーム型の応援旗を掲げるんですが、サポーター活動でそれを実際に手に取ったとき、テレビ越しでは感じなかった興奮や感動が自分の中に湧いてきて。その感覚が好きだったので、人の心を動かす「もの」を生み出す仕事がしたいと思ったんです。

社会人になってからも団体の活動は継続。入社後2年間は九州の拠点に配属されたが、頻繁に東京に戻っては打ち合わせやイベントに参加していたという。

山本氏:仕事にはやりがいを感じていた一方で、「本当にこれでいいんだろうか」という迷いは常にありました。九州にいた頃は地元のプロバスケットボールチームとタイアップしてフリーペーパーの制作や盛り上げの施策を考えたりもしましたが、この仕事の中でスポーツやサッカーに携わる「限界」も見えてしまって。東京に戻ってからは、大企業のクライアントをチーム制で担当する形に変わり、自分の手で仕事を動かしている実感も薄れてしまっていました。

「自分の一生をかけてやりたいこと」を
クリアにしたい

入社5年目のとき、山本さんは団体の活動で知り合ったブラインドサッカー選手とともに、地元横浜にブラインドサッカークラブ「ブエンカンビオ横浜」を立ち上げる。当初はメンバーが揃わなかったため、山本さん自身もアイマスクを着用して試合に出場していたという。

山本氏:ある日の練習中、ほかのメンバーと接触して鼻を骨折してしまったことがありました。そのときにメンバーやスタッフから言われたのが、「やっとブラインドサッカー選手っぽくなったね」という言葉。もちろん心配もしてくれましたが、「もうやめておいたら?」なんて言う人は誰もおらず、みんな笑いながらそう声をかけてくるんです。

他の選手は、この程度の怪我は覚悟のうえで、真剣に、そして楽しみながらブラインドサッカーに臨んでいる。そんな凄まじさを痛感したことで、「ブラインドサッカーの真の魅力をもっと伝えていきたい」という思いが強くなりました。

「自分の一生をかけてやりたいこと」をクリアにしたい。そう思うようになった山本さんは、入社6年目の頃、友人の勧めでグロービス経営大学院へ入学。仕事への迷いを打開するための一歩だったが、そこでの経験は結果的に山本さんの人生を変えた。

サッカーを仕事として追求しようと決意したきっかけは、グロービスの授業中にクラスメイトが言った一言でした。「好きなことを続ける中で生まれる使命感がある」。それを聞いたときにハッとしたんです。4歳からサッカーを好きで続けてきて、自己満足ではなくコミュニケーションとしてのサッカーの魅力を知っていて、さらにその分野で積極的に活動している人は決して多くない。サッカーを「社会を変えるソリューションツール」と捉え、ライフワークとして取り組んでいくことは、とても自分らしいキャリアの歩み方なのではないか、と。

見つけた「志」を実現すべく、
日本ブラインドサッカー協会へ

2013年、「ブエンカンビオ横浜」で活動をともにしていた日本ブラインドサッカー協会理事からの誘いを受け、山本さんは7年半勤めた会社を退職し、日本ブラインドサッカー協会の一員となった。情報発信から資金調達、前職での経験を活かしたクリエイティブ関連業務まで、入職後の仕事は多岐にわたった。

山本氏:2014年の世界選手権を日本に招致して東京都渋谷区で開催したのですが、そこで初めて観戦チケットの有料化に踏み切りました。観客はお金を払って観戦し、選手たちは「観られている」ことで意識を高く保ち、応援を力に変えて競技に取り組む。私たち運営側はより高いクオリティで大会を運営する。障がい者スポーツを「かわいそう」ではなく「興行」として捉えてもらうための、大きな挑戦でした。

私は価格設定をはじめ、有料化の背景をきちんと伝えるための情報発信、支払う額以上の価値を感じてもらえるような運営方法の企画などを担当。従来の常識を変えることは、正直なところ、想像をはるかに超えるものでしたが、地道な活動の甲斐あって開幕戦は約1,300席が事前完売。三位決戦・決勝戦も当日完売で、大会期間(9日間)を通じて7,988名の方に来場いただき、成果を上げることができました。

その実績により、スポーツ界の目も大きく変わりました。それまでのブラインドサッカーはパラリンピック出場実績もなく、なかなか日の目を見ない競技でしたが、今回の成功をきっかけに徐々に注目を集めるようになっていったんです。

その後、広報部門を経て、2017年からは営業部門も含めた事業戦略部を統括している山本さん。直近に品川区で開催された「IBSA(国際視覚障害者スポーツ連盟) ブラインドサッカーワールドグランプリ 2018」では、国際映像の配信、テレビ中継の交渉、取材対応などに奔走した。

山本氏:ブラインドサッカーに集まる注目を東京パラリンピック以降も継続させるには、試合を生で観戦できる限られた人だけでなく、それ以外の人たちの熱をいかに盛り上げて「今度試合を観てみよう」と思ってもらうか、次のアクションへ向けた繋がりをつくれるかが重要。そのため今回のワールドグランプリでは、競技場の周辺環境まで視野に入れ、チケットがなくてもブラインドサッカーの雰囲気を味わえるようなコンテンツづくりにも挑戦しました。

ブラインドサッカーは何もせずとも自然に認知が広がっていくような商材ではありません。プレーする選手はもちろんのこと、私たち協会のスタッフや、大勢のボランティアの方々など、強い想いを持つ人たちが関わるからこそ世の中に広められるもの。数年前まで、財源の9割以上を助成金に頼っているパラスポーツ競技団体がほとんどであったのが現状ですが、それでは私たちの「混ざり合う社会をつくる」というビジョンは到底実現できません。東京パラリンピックに向けて企業からの投資は増えており、メディアの方々にも盛り上げていただいていますが、競技団体が意識を変えなければ2020年以降も勢いを持続させるのは難しいでしょう。

だからこそ、事業の意思決定を自組織で行えるように財源のポートフォリオをどう組んでいくかが重要になってきます。ブラインドサッカーを「ダイバーシティ教育プログラム」や企業研修として提案・実施する事業もすでに本格稼働していますし、チケット・グッズ販売や寄付などを通じた個人向け資金調達では、どんな体験ができればお金を払いたいと思ってもらえるかを模索し、新しい事業の柱をつくることに注力しています。

「新春PRのフェスタ2018」にて日本PR大賞も受賞。山本氏の活動が外部からも評価さている。

障がい者サッカー全体を盛り上げ、
「混ざり合う」社会を実現する

「ブラインドサッカーを通じて、視覚障がい者と健常者が当たり前に混ざり合う社会を実現すること」。日本ブラインドサッカー協会が掲げるこのビジョン、そしてそれに則った独創的で地道な広報活動は、2017年度「日本PR大賞 シチズン・オブ・ザ・イヤー」の受賞を果たした。それは、「社会を変えるソリューションツール」としてのサッカーを追求する山本さんの、真摯な想いと取り組みが認められた証でもある。

山本氏:私たちは東京パラリンピックでのメダル獲得、2024年に世界一であることを目標に活動しています。そして、それが実現した時に障がい者の働き方や、障がい者への見方など、同時に社会が変わっているように取り組んでいくことが使命であると考えています。

また、もうひとつの私の目標は、ブラインドサッカーを含めた障がい者サッカー7種を底上げし、障がい者サッカー全体を盛り上げ、サッカー界をひとつにしていくこと。そのために現在は日本障がい者サッカー連盟での仕事も並行しています。各団体の意識を高め、健常者のサッカーとも連携を図りながら、ゆくゆくはサッカー界の日本代表すべてが同じユニフォームを着てサッカーの魅力を発信できるよう努めていきたいです。

「自分らしく働くとは何か」を考え抜き、好きなサッカーをライフワークへと昇華した山本さん。最後に自己実現のための秘訣をお聞きした。

山本氏:私は、「プロトタイプ」をつくれる人は強いと考えています。実現したい想いがあるなら、机上で考えるだけでも、それを伝えるだけでも、むやみに行動するだけでも不十分。想いを目に見える形にプロトタイピングすることで、周囲も納得感を持って行動してくれ、結果的に物事が早く動く。新しい取り組みを始める際には必ず意識するようにしています。このことを大切に、これからもブランドサッカーを含む障がい者サッカーと、サッカー界の発展のために働きかけていきたいと思います。

一般社団法人
日本障がい者サッカー連盟
事務総長

山本 康太

1983年、神奈川県横浜市出身。2006年に凸版印刷株式会社へ入社し、情報コミュニケーション分野の営業職・企画職を経て、2013年に日本ブラインドサッカー協会入職。2015年、グロービス経営大学院経営研究科修了(MBA)。ブラインドサッカーとは学生時代に出会い、大会運営ボランティア、日本代表サポーターとして携わる。2010年には地元横浜にブラインドサッカークラブ「ブエンカンビオ横浜」を設立。一般社団法人日本障がい者サッカー連盟理事・広報担当。

肩書はインタビュー当時のものです